エガオヲミセテ、カゼニフカレテ、ロバノパンヤ、ヒコーキグモ、アッパレアッパレ、オレハマッテルゼ、ドモナラズ、サヨウナラ……、独特の馬名で知られる小田切有一氏。

マリージョーイ、ミスラディカルの活躍馬をもっていたが、ともに道悪不得意。そこで道悪の救世主がほしい、という発想から名付けられたのがノアノハコブネだった。

父アローエクスプレス、母ユトリロ。1982年生まれ。

化骨が遅く、デビューは4歳(現表記3歳)だった。


1月、ダート1700mを快勝。

続く芝4戦を惨敗。桜花賞出走はままならず、このままならオークスさえも出走かなわずの状態だった。

最低、もう1勝。

選ばれたのが400万下条件、ダート1800m。勝利。



6戦2勝。すべてダート勝ち。それでもなんとか出走がかなったオークス。

当時、28頭フルゲートという、考えられないような頭数が出走した東京競馬場のクラシック。2勝馬でも出走できた所以である。


1番人気は桜花賞3着のミスタテガミ。桜花賞馬エルプス、桜花賞2着ロイヤルコスマー、ナカミアンゼリカ、イブキバレリーナ、ユキノローズ、ラッキーオカメ、混戦といわれたオークスではあったが、ノアノハコブネは28頭中21番人気。

ノアノハコブネという独特な馬名でなかったら、出走していることすら忘れられる存在だった。

調教師の田中良平師だけが「きっと勝負になる!」と意気込んでいたが、馬主小田切氏も荻伏牧場からも応援には来ていなかった。


レースは桜花賞を逃げ切ったエルプスの先行と思われたが、スタートで躓き、先手をとったのはユキノローズ、アイランドゴッテスだった。

2400mのレースとしてはハイペースで進んだ。

26番手、ほとんど最後方から進めるノアノハコブネにとって、願ってもない展開ではあった。

とはいえ、前にいる馬は25頭。


4コーナー、トチノニシキがユキノローズをとらえ、ロイヤルコスマーも上がって来る。後方にいたミスタテガミも3コーナーから脚を伸ばし、5番手まで進出。


ノアノハコブネは26番手のまま、直線を迎えた。

何頭交わせるか!

鞍上・音無秀孝は確かな手応えを感じながらも、その程度に思っていた。


トチノニシキ、ロイヤルコスマー、ミスタテガミ、ナカミアンゼリカがひしめいて、叩きあい。

そこから抜け出したのは、死期迫る中島啓之が操るナカミアンゼリカだった。


中島啓之は肝臓ガンの宣告を受けながら、せめてダービーまで乗せてくれ、と医師を説得、騎乗していた。競馬サークルは誰も気づかなかったという。ダービー後16日の6月11日に急逝。


中島騎手の執念に押されて馬群から抜け出したナカミアンゼリカ。

その外を影が走った。


誰もが目を疑った直線、25頭のゴボウ抜き。

見せたのはノアノハコブネだった。


次元の違うただ1頭の走りを見せて、ノアノハコブネはオークス馬に輝いた。




それは、ただ1度の輝きだった。

あまりにも鮮烈すぎた輝きは、燃え尽きたのかもしれない。


秋、ローズS11着、エリザベス女王杯11着。


12月、阪神大賞典3000m。

1周目スタンド前、ノアノハコブネはレースを終えた。

故障発症。寛骨骨折。骨盤の骨折だった。


おびただしい出血があった。

その原因は、折れた骨が動脈を破っていた。


馬運車で馬房まで運ばれたが、ノアノハコブネはいななきとともに馬房を飛び出し、その場に倒れ、動かなくなったという。


ノアノハコブネ、悲しすぎる運命に

田中師も音無騎手も、ただ涙するしかなかった。

救いの方舟は現れることなく、1頭の牝馬は世を去った。