ドリームレース、有馬記念。
みんなの夢が走ります。
あなたの夢は 何ですか?
杉本アナの名調子。
ファン投票を軸に選ばれる出走馬、まさにファンにとってのドリームレース。
しかし、それは馬にとっても、
生涯を賭けたドリームレースなのかもしれない。
ダイユウサク。
父ノノアルコ、母クニノキヨコ。
父は世界的種牡馬ノーザンダンサーを出したニアークテックの直仔。母は1勝馬だが、その母クニノハナはビクトリアC(エリザベス女王杯の前身)の勝ち馬。
血統的には期待されて当然の背景があったダイユウサク。
1985年、生まれてすぐに牧場に訪れた内藤繁春調教師は、バランスのいい馬体に目を付け自厩舎で預かることを、その場で約束したという。
中央競馬でのデビューも確約され、前途洋々に見えたダイユウサクだったが、その後の成長ぶりは関係者を落胆させるものだった。
6月という遅生まれでもあり体は他の同期よりも小さく、体質が弱く、腰が甘いため追うとすぐ疲れを出す。
3歳(現表記2歳)12月。同期の若駒が続々とターフにデビューしている頃、ダイユウサクは漸く牧場から、栗東トレーニングセンターに入厩した。
生まれた時以来、成長したダイユウサクを見た内藤師は驚いた。それは、失望に近い驚きだった。
馬体は大きくなった。だが、想像していた馬体とはまったく違っていた。
体質の弱さはひどく、飼い葉も合わない状態。デビューまで1年近くかかってしまうことになる。
ヤエノムテキ、サクラチヨノオー、サッカーボーイ、オグリキャップ、スーパークリーク、同期といわれる馬たちの活躍ぶりが聞こえるなか、ダイユウサクはデビューすらまだない状態だった。
4歳10月、400万下、ダート1800m。漸くデビュー戦。
11頭立て11着。1着馬から13秒差。
11月、福島未勝利戦、芝1800m。
14頭立14着。1着馬から7.3秒差。
夢のかけらも拾えない走りだった。
競走馬失格、引退。
真剣に考えられた。
地方に転出するにも、この惨状では引き取り手もない。
それよりも、内藤師を想い留まらせたのはダイユウサクの澄んだ瞳だった。
「もうちょっと、様子を見てみよう」
内藤師は馬主に頼み込んだ。
もうしばらく、辛抱してほしいことを。
5歳となってダイユウサクは変わった。
競走馬として目覚めたのか?
自分の将来の危険を察知したのか?
はたまた、自分を見つめる内藤師の心がわかったのか?
5着、8着のあと5戦目で初勝利。
5歳時に5勝を挙げ、6歳時は3勝。重賞レースでも3着、4着と好走。
年齢的に下り坂となる7歳、正月の名物レース金杯で重賞初制覇。
2000mまでの重賞では有力馬の1頭に数えられるようになった。
暮れに行なわれる有馬記念2500m。ドリームレース。
ダイユウサクは登録してきた。
それは、内藤師の一存だった。
ファン投票でもまったく上位に名が出ないダイユウサク。
活躍距離も2000mまでのダイユウサク。
内藤師以外の関係者は唖然状態だった。
もちろん、ファンも何でここにダイユウサクが……状態。
競馬会の推薦による出走しかないダイユウサクだが、議論百中の末の推薦であった。
1991年、12月22日、有馬記念。
圧倒的1番人気がメジロマックイーン単勝1.7倍。ダイユウサクは15頭立14番人気単勝137.9倍。
みんなの夢が走ります。
私の夢は、ダイユウサク。
という人は、おそらく一握りの人であっただろう。
レースは稀代の逃げ馬、ツインターボの先行で始まった。
単騎逃げであってもスローペースなど好まないツインターボ。逃げて逃げて逃げまくり、捕まった所がツインターボのゴール。あとは追い抜かれるだけ。壊滅の走りこそがツインターボの魅力だった。
そのペースを見越して中団に控えるメジロマックイーン。
その内を影のようにマークするダイユウサク。
メジロマックイーン鞍上の武豊にとって、最初から眼中にないダイユウサクは、走りそのものが影の存在だったかもしれない。
2周目3コーナー、早くも失速ぎみのツインターボ。
プレクラスニー、ダイタクヘリオスが先頭に。
そして、メジロマックイーンが外から進出を開始。
直線、いち早く先頭に躍り出たプレクラスニーが逃げ込みを図る。
外から伸びてくるのは、
誰もが信じて疑わないメジロマックイーン!
力強い! グイグイ伸びる。
プレクラスニーを交わし去った!
その内から、矢のように突っ込んで来る馬がいた。
ダイユウサクだ!
生まれた時から仲間たちにあざけられ、ののしられもした。
レースで惨敗し、身の置き所もない自分だった。
走ればいいんだ!
勝てばいいんだ!
めざすは、てっぺん!
見よ! これが、ダイユウサクだぁ!
1馬身4分の1差、
炎の走りはメジロマックイーンをも捻じ伏せた。
2分30秒6、有馬記念レコードで優勝したのは、14番人気ダイユウサクであった。
ゴール後、左手を高々と突き上げた鞍上・熊沢重文。
その日、ダイユウサクの担当厩務員平田が馬房へ帰ると、書き置きと缶ビールが一つあったという。
「ダイユウサクとお先に祝杯をあげました」
残されたメッセージの主は熊沢だった。
ダイユウサクと二人っきりの祝勝会で熊沢は何を語ったのだろうか?
種牡馬を終えたダイユウサクは、その血を残すことはできなかったが、いま、うらかわ優駿ビレッジでニッポーテイオー、ウイニングチケットらと仲良く余生を送っている。
すべては有馬記念優勝馬という看板があればこその余生ともいえる。
その澄んだ瞳は、いまも変わらないという。
みんなの夢が走ります。
あなたの夢は 何ですか?
杉本アナの名調子。
ファン投票を軸に選ばれる出走馬、まさにファンにとってのドリームレース。
しかし、それは馬にとっても、
生涯を賭けたドリームレースなのかもしれない。
ダイユウサク。
父ノノアルコ、母クニノキヨコ。
父は世界的種牡馬ノーザンダンサーを出したニアークテックの直仔。母は1勝馬だが、その母クニノハナはビクトリアC(エリザベス女王杯の前身)の勝ち馬。
血統的には期待されて当然の背景があったダイユウサク。
1985年、生まれてすぐに牧場に訪れた内藤繁春調教師は、バランスのいい馬体に目を付け自厩舎で預かることを、その場で約束したという。
中央競馬でのデビューも確約され、前途洋々に見えたダイユウサクだったが、その後の成長ぶりは関係者を落胆させるものだった。
6月という遅生まれでもあり体は他の同期よりも小さく、体質が弱く、腰が甘いため追うとすぐ疲れを出す。
3歳(現表記2歳)12月。同期の若駒が続々とターフにデビューしている頃、ダイユウサクは漸く牧場から、栗東トレーニングセンターに入厩した。
生まれた時以来、成長したダイユウサクを見た内藤師は驚いた。それは、失望に近い驚きだった。
馬体は大きくなった。だが、想像していた馬体とはまったく違っていた。
体質の弱さはひどく、飼い葉も合わない状態。デビューまで1年近くかかってしまうことになる。
ヤエノムテキ、サクラチヨノオー、サッカーボーイ、オグリキャップ、スーパークリーク、同期といわれる馬たちの活躍ぶりが聞こえるなか、ダイユウサクはデビューすらまだない状態だった。
4歳10月、400万下、ダート1800m。漸くデビュー戦。
11頭立て11着。1着馬から13秒差。
11月、福島未勝利戦、芝1800m。
14頭立14着。1着馬から7.3秒差。
夢のかけらも拾えない走りだった。
競走馬失格、引退。
真剣に考えられた。
地方に転出するにも、この惨状では引き取り手もない。
それよりも、内藤師を想い留まらせたのはダイユウサクの澄んだ瞳だった。
「もうちょっと、様子を見てみよう」
内藤師は馬主に頼み込んだ。
もうしばらく、辛抱してほしいことを。
5歳となってダイユウサクは変わった。
競走馬として目覚めたのか?
自分の将来の危険を察知したのか?
はたまた、自分を見つめる内藤師の心がわかったのか?
5着、8着のあと5戦目で初勝利。
5歳時に5勝を挙げ、6歳時は3勝。重賞レースでも3着、4着と好走。
年齢的に下り坂となる7歳、正月の名物レース金杯で重賞初制覇。
2000mまでの重賞では有力馬の1頭に数えられるようになった。
暮れに行なわれる有馬記念2500m。ドリームレース。
ダイユウサクは登録してきた。
それは、内藤師の一存だった。
ファン投票でもまったく上位に名が出ないダイユウサク。
活躍距離も2000mまでのダイユウサク。
内藤師以外の関係者は唖然状態だった。
もちろん、ファンも何でここにダイユウサクが……状態。
競馬会の推薦による出走しかないダイユウサクだが、議論百中の末の推薦であった。
1991年、12月22日、有馬記念。
圧倒的1番人気がメジロマックイーン単勝1.7倍。ダイユウサクは15頭立14番人気単勝137.9倍。
みんなの夢が走ります。
私の夢は、ダイユウサク。
という人は、おそらく一握りの人であっただろう。
レースは稀代の逃げ馬、ツインターボの先行で始まった。
単騎逃げであってもスローペースなど好まないツインターボ。逃げて逃げて逃げまくり、捕まった所がツインターボのゴール。あとは追い抜かれるだけ。壊滅の走りこそがツインターボの魅力だった。
そのペースを見越して中団に控えるメジロマックイーン。
その内を影のようにマークするダイユウサク。
メジロマックイーン鞍上の武豊にとって、最初から眼中にないダイユウサクは、走りそのものが影の存在だったかもしれない。
2周目3コーナー、早くも失速ぎみのツインターボ。
プレクラスニー、ダイタクヘリオスが先頭に。
そして、メジロマックイーンが外から進出を開始。
直線、いち早く先頭に躍り出たプレクラスニーが逃げ込みを図る。
外から伸びてくるのは、
誰もが信じて疑わないメジロマックイーン!
力強い! グイグイ伸びる。
プレクラスニーを交わし去った!
その内から、矢のように突っ込んで来る馬がいた。
ダイユウサクだ!
生まれた時から仲間たちにあざけられ、ののしられもした。
レースで惨敗し、身の置き所もない自分だった。
走ればいいんだ!
勝てばいいんだ!
めざすは、てっぺん!
見よ! これが、ダイユウサクだぁ!
1馬身4分の1差、
炎の走りはメジロマックイーンをも捻じ伏せた。
2分30秒6、有馬記念レコードで優勝したのは、14番人気ダイユウサクであった。
ゴール後、左手を高々と突き上げた鞍上・熊沢重文。
その日、ダイユウサクの担当厩務員平田が馬房へ帰ると、書き置きと缶ビールが一つあったという。
「ダイユウサクとお先に祝杯をあげました」
残されたメッセージの主は熊沢だった。
ダイユウサクと二人っきりの祝勝会で熊沢は何を語ったのだろうか?
種牡馬を終えたダイユウサクは、その血を残すことはできなかったが、いま、うらかわ優駿ビレッジでニッポーテイオー、ウイニングチケットらと仲良く余生を送っている。
すべては有馬記念優勝馬という看板があればこその余生ともいえる。
その澄んだ瞳は、いまも変わらないという。