稀代の逃げ馬、メジロパーマー。

父メジロイーグル、母メジロファンタジー。


父メジロイーグルも逃げ馬として人気があった。小気味良い逃げでレースを先導し、ゴール前まで精一杯逃げる。クラシックでも、つねに見せ場をつくった。あと100m、逃げ切るんじゃないか? と思わせるほどに頑張る。あと50m、つかまると一気に沈む。もう少し、もう少し、なのに2、3着はない。精一杯、極限まで逃げるからこその失速。だが、いつかは…、そんな思いを抱かせてくれる逃げ馬だった。

ひたすら逃げの父と違って、メジロパーマーは違った。

道中を10馬身も20馬身も離して逃げる、大逃げ。豪快逃げこそメジロパーマーの身上だった。



1987年、北海道洞爺湖町のメジロ牧場に生まれたメジロパーマー。

この年のメジロ軍団にはメジロマックイーン、メジロライアンなどがおり、無冠のまま種牡馬となったメジロイーグルの仔メジロパーマーへの期待は、正直、薄かった。

1989年、3歳(現表記2歳)デビュー。3戦目に未勝利脱出、続く4戦目のコスモス賞を連勝で飾るも、5歳6月まで12戦0勝。その間、骨折による半年以上休養を2度挟み、すっかり忘れられた存在となった。

障害転向が検討され、障害練習も始められた。

途端に2連勝。うち1勝は軽量51㌔とはいえ重賞・札幌記念。

その後、重賞3連敗。


11月、本格的障害転向。障害未勝利戦6馬身差1着。400万下2着。順調に見えたが、レース後、傷だらけのメジロパーマーだった。飛越の拙さが傷をつける。このままでは…、厩舎も諦めずを得なかった。


6歳になって、再び平場を走りだしたメジロパーマー。その2戦目に生涯のパートナー、若き山田泰誠を鞍上に迎えた。

それまで逃げたり、先行したりのメジロパーマーを駆して、山田泰誠は徹底的な逃げの手を打った。

相手が誰であろうと逃げる。

脇目も振らせない。


首の高い独特なフォーム、時おり、口を割るそぶり。いかにも鞍上とケンカしているようで、そうでない。山田泰誠はメジロパーマーの我がままを許さなかったのだ。


新潟記念を逃げ切ったあと、迎えた宝塚記念。9番人気をあざ笑うかのようにカミノクレッセに3馬身の差をつけて逃げ切った。G1初勝利。

唖然としたのは、関係者だった。メジロの関係者はメジロ商事社長の北野俊雄氏のみが阪神競馬場にいた。


G1馬メジロパーマー。そのあと9着、17着。あれは幻、いや、偶然。

1992年、12月27日、有馬記念。16頭立て15番人気がメジロパーマーだった。

人気など関係ない。

勝つために乗る。

勝つために逃げる。


山田泰誠に迷いはない。どんどん引き離すメジロパーマー。豪快な大逃げ。

ピッタリくっ付いてくるのはダイタクヘリオスだった。

2頭で10馬身以上の差を広げたが、トウカイテイオーもライスシャワーもヒシマサルも後方で動かない。


4コーナー手前でダイタクヘリオスが力尽きた。

だが、メジロパーマーに衰えはない。


これでは……。

追いはじめたのは、レガシーワールド、ナイスネイチャ。


場内は騒然とする。

単勝15番人気、メジロパーマーの一人旅。


直線、半ば。

力尽きながらも、踏ん張る!

1完歩ごとに迫るレガシーワールド!


ハナ差逃げ切ったメジロパーマー。

宝塚記念、有馬記念、グランプリ連覇。



その逃げに、父メジロイーグルのひたむきさはない。

惨敗、惨敗繰り返し、忘れ去られた時、

その大逃げは最強馬をつくり出す。


メジロパーマー、稀代の逃げ馬。


豪快な大逃げ。


それは、守らない。


後先考えない。


攻めて攻めて、攻めまくる。


メジロパーマー、反骨の魂の走りだった。