父ナグルスキー、母タケノファルコン。

ホクトベガ。美浦・中野厩舎。1990年生まれ。


ベガ、こと座の一番明るい星。七夕の織姫星である。

ホクトベガは桜花賞前のフラワーカップを制し、輝く星として夢は膨らんだ。


しかし、桜花賞5着、オークス6着。

輝く星となったのは、関西の栗東・松田厩舎所属のベガだった。

1番人気で桜花賞、オークスを連覇、2冠馬となり牝馬3冠確実とまでいわれた。


偶然にも、同期に2頭もいるベガ。ベガの輝きの前にホクトベガの輝きはくすんで見えた。


秋、エリザベス女王杯。

ベガ、3冠のかかる一戦。9番人気のホクトベガ。まともに戦っても勝ち目のないホクトベガ陣営は秘策を練った。

運よく1番枠。京都の2400m外回りコースは4コーナーで必ず内が開く。内でじっと我慢、直線に賭けよう。有力馬はみんな外を通るはず。

中団、内ピッタリを通るホクトベガ。直線、絵に描いたように、内が開いた。

ここしかない! 勝つためには。

まっしぐらにホクトベガは、空いた内を突いた。

一気に先頭に立ってゴールをめざす。

ノースフライト、ベガの追撃もままならない。


「ベガはベガでも、ホクトベガ!」 馬場鉄志アナの名文句だ。


輝いたホクトベガ。エリザベス女王杯を制覇。



一度っきりの輝きだった。

6歳(現表記5歳)5月まで15戦、札幌で2勝したが苦戦続き、障害転向も考えられたホクトベガ。



でも、輝きは失わない。

胸の奥底に誓った。



1995年、6月13日。その時はやってきた。

中央競馬と地方競馬の交流が盛んになってきたこの頃。川崎競馬場で行なわれた牝馬限定重賞エンプレス杯。中央からホクトベガは参戦した。

ダート戦、ホクトベガは活路を求めた。

関係者、観衆がアッ気に取られた。

2着に18馬身の差をつけてホクトベガはゴールした。


その後、芝を5戦未勝利に終わったホクトベガは7歳時、再びダートを走りだした。


川崎記念、フェブラリーS、ダイオライト記念、群馬記念、帝王賞、エンプレス杯、マイルCS南部杯、浦和記念、川崎記念、すべて勝利。途中芝レースを2度使ったが、ダートでは無敵の10連勝を飾った。



1997年、4月。

8歳のホクトベガは、さらなる輝きを求めてドバイへ旅立った。

第2回ドバイワールドカップ。招待され出場。


ホクトベガは4コーナーで、前を行くルソーと接触転倒。後ろから来たビジューダンドが逃げ場なく追突。

ホクトベガは左前腕節部複雑骨折により予後不良。安楽死処分となった。


余りにも無残、無念。

静まり返ったドバイの競馬場。


ベガが、ユキノビジンが、多くの同期が母となって繁殖に上がっても走り続けたホクトベガ。

あらゆる可能性を求めて、輝くために。


打ち立てた金字塔はダートの女王。


世界へ。

煌きは増すはずだった。



悲しみの中に、ドバイの空に星は光る、ホクトベガ。