昨夜の稽古(アメリカ、シアトルでの居合術講習談含) | 平成の侍 町井勲オフィシャルブログ『居愛道』Powered by Ameba

昨夜の稽古(アメリカ、シアトルでの居合術講習談含)

昨夜の大阪豊中岡町道場定例稽古




お盆と言うこともあって、参加者は少なかった。

渡米の後で身体はまだだるく、しかも現地で相当数刀を振って帰ってきたため、腕にも疲労が見られた。投げられる小さなブルーベリー等を切るに当たり、普段の振りとは異なって、対象物を追いかけて切るため、無駄に筋力を使っていたことが、筋肉疲労によってよくわかる。

まだまだ改善点が多い自分の振り。


稽古では初伝形を五本目まで行ったが、どうしても門弟達の身体の使い方が気になって仕方がない。

当面は形を覚えることを最優先しようと決めていたのに、やはり形稽古を中断し、身体捌きの稽古に移行。


巷では

「町井の居合は所詮、現代居合の範疇だ。」

と言われているそうですが、自分の中では現代居合とは全くの別物だと思っていますし、僕の居合に触れたことがある方は、そのように思ってくださるはずです。


数日前の記事では、シアトルでちょっとした居合の講義もさせて頂いた旨を記述しましたが、

「単に刀で巻藁を斬るようなことは教えたくない。物斬りの講習会ならやりたくない。」

と伝えるも、やはり講習では1人あたり5本だけでも… と、アメリカでは高価な畳表が用意され、試斬技術の講習を希望されました。


しかし、講習会で斬ることよりも、身体捌きの大切さを実践して体感して頂いたところ、受講者の求める方向性は、斬ることではなく、術としての居合に変わりました。


受講者には、合気道、少林寺拳法、空手、居合道(全剣連現代居合)などの経験者ばかりが集ったのですが、はっきり言って、

「もう、試斬なんてどうでもいい。」

と言う雰囲気に変わり、面白いことに、わざわざ用意された畳表の多くが、斬られることなく残ったのです。

僕の居合講義に参加された方々が、「斬/切」よりも「術」に興味をもたれた何よりもの証拠です。


それほどに「術」としての居合は変化に富み、探求すればするほど面白いものなのです。



ついでを言わせて頂くと、

「武道・武術を安易にテレビで披露するのは武道家・武術家ではない。」

等と、かねがね揶揄されることが多いのですが、その言葉には

「どれだけ頭が固いの?」

と失笑してしまいます。


刀職の中にも何を勘違いしているのか、

「刀はボールや野菜を切るためのものじゃない。刀で切っていいのは巻藁と竹と鉄兜だ。」

なんて偉そうに説教下さる方がおられますが、これも勘違い甚だしい。


ボールはダメで竹なら良い?


何を時代錯誤されているのでしょう??


仮に現在も武家の時代が続いていれば、どこかの物好きなお殿様が、誰かしらに必ずボールを切らせているはずです。

「そこに居るはメリケン生まれの野球なる球技では豪腕と知られるツワモノ。新右衛門、街道一と呼ばるるそちの剣技でこの者が投げる剛速球を斬って見せよ。」

何故か頭に浮かんだのはアニメ「一休さん」の義満将軍と新右衛門さんでのやりとりでしたが、まぁ、こう言ったことは、必ず起きていたことでしょう。


過去の士が前例を作っていれば、きっとこの勘違い職方は

「刀で切っていいのは巻藁と竹と鉄兜と野球ボールだ。」

なんて言うのでしょうね(笑
刀剣を単なる美術品に位置づけているお偉方の常套句、ある意味逃げ口上です。

刀剣は美術品である前に、刃物であり、武器であることを忘れてはいけません。

回転しながら高速で飛来するボールを斬るには、使い手の確かな技術と、ボールの回転に対応できる柔軟性を持ち合わせた刀でなければできません。

ですからボール斬りは、一種の「刀剣荒試し」と言えましょう。
ゴムでできた軟球や硬い硬球に切り込んで、曲がる、刃毀れする、折れる、などと言った現象が起きては、もはやただの鉄工芸品であって、日本刀とは呼べません。

果たして無鑑査と言う称号に胡坐をかいていたり、己が鍛える刀は美術品、つまり格の高いものであって、居合や物斬り用の類ではないなどとのたまう刀工の作で、時速120キロを超える硬球の裁断に耐えることができる刀剣を作れる人は何人いるのでしょうか?


とにかく島国根性とでも言いましょうか、特に文化だのなんだのといわれる刀の世界では、前例がないことを行うと必ず叩かれます。

伝統や文化を継承し、守りながらも、柔軟な識者の場合はボールの居合斬りに関しても、賞賛する言葉を述べはされても、叱責するような言葉は言われません。


親しくお付き合い頂き、子沢山の僕に目をかけてくださる刀剣鑑定家の高山武士先生は、テレビに出る時には知らせて欲しいと言って下さり、放映をご覧になられると

「町井君、見事だったよ。よくあんな速い物が居合で斬れるね。君が見せる居合を邪道だと言う人もたくさんいるだろうが、誰が見ても解る形で伝統や文化、刀と言うものを披露することも、立派な伝統・文化継承の役割だよ。君の姿を見て、刀や日本の文化に興味を持つ人が現れるのだから。」

と、嬉しいお言葉をかけてくださいます。


刀だからこれは切ってはダメ。あれなら切っても良い。


は、ただのエゴだと思います。

僕は好き好んで異物を斬っているわけではありません。
むしろ斬る姿は見せたくないですし、斬ることだけを教えたくもありません。


僕は常日頃、人にこう話します。

「刀は己の悪しき心を斬る道具です。僕はまだまだ修業が足りないので、未だ自分の悪しき心を両断できずにいますが(笑」



さて、かなり話が横道にそれましたが、昨夜の稽古では、五本目「八重垣」以降、二人一組で身体捌きの稽古に移行して、ずっとその稽古だけに終わりました。

八重垣では多くの動きを学びますが、その中の一点に絞ります。


人それぞれ感覚が異なるため、同じ身体捌きを、様々なシチュエーションに置き換えて稽古してもらいます。稽古着の肩部を掴む、両二の腕を掴む、柄に手をかけるなどなど。

更に受けの感性を養うべく、二の腕に皮膚が触れただけの状態から、理想とする身体捌きで相手を崩す稽古も行い、受けととり、どちらの感性も育てるのです。


「テレビで技を披露するのは邪道」


と言う頭デッカチ勘違い人にこそこう言いたい。


「普段どのような稽古をしているのか知りもしないのに、氷山の一角のみを見て安易に判断しないでもらいたい。テレビで披露しているのは修業過程の副産物に過ぎない。」

と。


ちなみに、藤安将平刀匠がご自身でも試斬をされることを、つい先日知りました。

どなたかに習われたのですか? と尋ねると、笑ってこう言われました。

「試し斬り上手になりたいなんて思わないの。むしろ下手なほうがいいの。だって、上手に斬ったら刀にかかるダメージのデータがとれないでしょ? 刀を握ったこともないような素人に切ってもらうと、刃筋立てること知らないから、刀に様々な負荷がかかるのを見ることができて、僕もいい勉強になんのよね。昔の士も、みんな町井さんみたいな腕達者じゃないわけだから、誰が使っても折れない刀を作らなきゃ、それが刀鍛冶ってもんでしょ。」

将平刀匠のことが益々好きになりました。
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/masahira/01.html
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/masahira/01-e.html











関西(大阪豊中・兵庫川西)で古流居合術を学ぶなら、『修心流居合術兵法 修心館』
http://www.shushinryu.com

居合刀・武用刀剣から価値ある美術刀剣まで、日本刀・刀剣・古武具に関することなら『美術刀剣 刀心』
http://nihontou.jp