今日の稽古 | 平成の侍 町井勲オフィシャルブログ『居愛道』Powered by Ameba

今日の稽古

試斬希望者おらず、本日は斬稽古無し。


巻藁や竹を切ることを好む人が多い中、うちの門弟達は特異であると言っても過言ではない。

物を斬ることより、居合術としての身体の使い方を学びたいと言う気持ちが増していることは、非常に良いことである。

物斬りなどは所詮お遊び。


稽古に出て、刀本来の使い方を知った門弟達には、最早巻藁試斬は刃筋チェックのための一方法でしかなく、斬ることにやっけにはならない。

自らこの答えに辿りつけた者は素晴らしい進歩だと思う。



さて、本日の稽古では、形稽古は一本しかやらせていない。

奥居合座り業の一本目『霞』のみである。


この一本の形を、ただひたすら25分程抜かせるのですが、単に形演武をしろという内容ではなく、いかに二刀目の刃筋を立てるかが今日の課題。


無駄な動きを全て遮断し、身体本来の動きに全神経を集中させます。

稽古法をここで公開する気はありませんので詳細は記述しませんが、とにかく身体の中心から動くということが肝要とだけ記しておきます。


僕が興した修心流は、無雙直傳英信流が母体となっていますが、英信流系の居合道場では、僕のような指導をしている道場はないと思います。

25分の形稽古の後は、二人一組で術理の稽古。傍から見ると抜刀もせず、ただただ二人一組で「崩れた」「崩れていない」の小さな動きの稽古とチェックの様子は、なんともつまらなく、見ごたえもない「?」な稽古に映ることでしょう。

傍から見てわけのわからない稽古。

それだから面白いのです。


ただ、この術理稽古は、受けと取りに、技術的な躍進が求められます。

術ですから、初心者にもかけることはできるのですが、鍛錬を積んだ者同士と、そうでないものとでは、業のかかり具合に差が出るのです。

例えば、合気道の達人同士の演武を見ると、触れてもいないのに相手が吹っ飛ぶなんてものがありますが、あれは鍛錬を積んだ者同士だからなせるものであり、素人相手に同じ業を実践しても、演武のようには素人は吹っ飛びません。ただ、崩され、攻撃や反撃ができない状態にされていることには変わりはありません。

そこが素人と練磨を積んだ者との違いで、吹っ飛ばされている受けの者は、ただ吹っ飛ばされているわけではなく、自ら吹っ飛ぶことで、次の攻撃のための距離的な「間」と、時空的な「間」をとりなおしているわけです。

受け身は負けの姿ではなく、次の攻防への下準備と言えましょう。


話を稽古に戻しますが、残念ながらうちの子供達は、まだまだ練磨の経験値が足りず、崩した崩されたの、小さな動きに反応する稽古にはまだまだ参加できません。

ですから、やもすればわけがわからず、ただつっ立っているだけになったり、おしゃべりの時間になったりするものですから、不本意ながら、長女と三男には、とりあえず遊びを覚えなさいと、巻藁斬りの技法稽古をさせました。

俗に言う素振りというものです。


居合術の習得は難しいものですが、物斬りの技術習得は簡単なもので、毎日僕の下で稽古していれば、二か月もあればそこそこの技量に育てる自信があります。実際、過去に育てた経緯があります。


居合術の繊細な稽古をする一方で、稽古場所の半面では、次男・長女・三男が、素振りを行います。


偉そうにだとか、天狗になっているだとか、陰口叩く心ない方もおられるようですが、僕が他の人より腕達者であることは事実です。
僕の域にまで達しますと刀の樋音を聴くだけで、斬れる振りなのかそうではないのか見極めることができるようになります。

親馬鹿と思われるかもしれませんが、今日の素振りの音を聴くに、三人とも良い斬りができています。



人と言う生き物は、目で見えて成果が見える物に価値を見出すところがあるもので、居合術の繊細な技術には、なかなか興味を持ってはもらえないのですが、据え物斬りのような目に見えて上手下手がわかる物には更なる興味を示すものです。

重複しますが、このような遊びを稽古させることには不本意ではありますが、それでも、目に見える成果に笑みをこぼす子供達には、その技量に応じた業を教える方が、やる気を損なわず、良い方法なのだと、長男を育ててみて僕も会得したので、今日はただひたすら素振りに集中させます。

娘の稽古に対する心構えと、費やす時間にも左右されますが、まずは長女を日本一、いや、世界一の据え物斬りの技術者に育ててみたいと思います。

斬れることを習得したあとには、斬らないことの大切さを教えたいと思います。