昨夜の稽古
子供達を叱りました。
まずは稽古開始時間より後に姿を見せたこと。次に袴の畳み方が悪く、余計な筋、折れ目がついていたからです。
道場長の実子であっても、稽古場においては一門弟です。
甘えがあってはいけません。
子のためにならないからです。
近頃は北村君に任せ、後から稽古場へ向かうことが多い僕ですが、だからと言って子供達までが同じようではいけません。
「礼に始まり礼に終わる」
その言葉があるように、稽古開始時の礼、終了時の礼の時も、全員揃わなければいけません。
子供達ばかりが悪いわけではなく、そのように稽古を軽んじさせてしまった僕の指導方針も改めなければいけないと痛感しました。
子供達への叱咤は、実は僕自身への苛立ちであり、怒りだったのかもしれません。
袴の折り目は正面から見て五本となっています。
日本人は古来から奇数を好みました。
袴の五つの折り目は、嘘か真か、
『仁義礼智信』を顕すなどと言われます。
ならばその五つの折り目は、いつでもピンと筋が通っており、余計な折り目や皺が入っていてはいけません。
それ以前に折り目の通っていない袴を身につけるなど、武士の恥と思うべきだと考えるわけです。
「実力さえあれば身なりなんてどうでもいい。」
では、武士や侍は務まりません。
洗濯が頻繁に行えなくても、毎回綺麗に畳むことで、袴はいつでも凛とするものです。
袴だけではありません。
下緒にしてもそうです。捻れたりしていてはいけません。
些細なことですが、武家は体裁を重んじました。故に、これらがしっかりと出来ない者は、武家として失格ではないでしょうか?
小言はこれくらいにしまして、稽古におきましては、三男がめまぐるしい進歩をみせています。
指導者として、親として、本当に嬉しいものです。
三男は居合・刀が好きなのでしょう。「休憩してていいよ。」と言っておいたのに、ふと見ると、一人で稽古を再開していました。
手頃な模擬刀がなかったため、三男にはちょっと長い長女が使っていた模擬刀を持たせましたが、今日初めて教えたことを、しっかりとやってのけました。
僕のDNAが一番濃いのは、この三男かもしれません。将来有望です。
まずは稽古開始時間より後に姿を見せたこと。次に袴の畳み方が悪く、余計な筋、折れ目がついていたからです。
道場長の実子であっても、稽古場においては一門弟です。
甘えがあってはいけません。
子のためにならないからです。
近頃は北村君に任せ、後から稽古場へ向かうことが多い僕ですが、だからと言って子供達までが同じようではいけません。
「礼に始まり礼に終わる」
その言葉があるように、稽古開始時の礼、終了時の礼の時も、全員揃わなければいけません。
子供達ばかりが悪いわけではなく、そのように稽古を軽んじさせてしまった僕の指導方針も改めなければいけないと痛感しました。
子供達への叱咤は、実は僕自身への苛立ちであり、怒りだったのかもしれません。
袴の折り目は正面から見て五本となっています。
日本人は古来から奇数を好みました。
袴の五つの折り目は、嘘か真か、
『仁義礼智信』を顕すなどと言われます。
ならばその五つの折り目は、いつでもピンと筋が通っており、余計な折り目や皺が入っていてはいけません。
それ以前に折り目の通っていない袴を身につけるなど、武士の恥と思うべきだと考えるわけです。
「実力さえあれば身なりなんてどうでもいい。」
では、武士や侍は務まりません。
洗濯が頻繁に行えなくても、毎回綺麗に畳むことで、袴はいつでも凛とするものです。
袴だけではありません。
下緒にしてもそうです。捻れたりしていてはいけません。
些細なことですが、武家は体裁を重んじました。故に、これらがしっかりと出来ない者は、武家として失格ではないでしょうか?
小言はこれくらいにしまして、稽古におきましては、三男がめまぐるしい進歩をみせています。
指導者として、親として、本当に嬉しいものです。
三男は居合・刀が好きなのでしょう。「休憩してていいよ。」と言っておいたのに、ふと見ると、一人で稽古を再開していました。
手頃な模擬刀がなかったため、三男にはちょっと長い長女が使っていた模擬刀を持たせましたが、今日初めて教えたことを、しっかりとやってのけました。
僕のDNAが一番濃いのは、この三男かもしれません。将来有望です。