自己アピール
今日はちょっと真面目に僕が思うことを書き綴ってみたいと思います。
これから書くことは、僕の理想、僕の考えであり、僕自身もできていないことばかりです。
自分のことを棚にあげてと思われるかも知れませんが、そういう点は流して読んで頂ければと思います。
~ ありがとう と ごめんなさい ~
人間が生きていく上で、この二つの言葉は非常に大切なものです。
残念ながら我が家ではこの二つの言葉を上手に使える者がおりません。
だからいつも喧嘩に発展する。
例え自分に非がなくとも、一旦その場を収拾するために、敢えて馬鹿を演じる必要も時としてあります。
その場では悔しいかもしれません。
しかし、「ごめんなさい」というたった6文字の言葉を発するだけで、大事にならず、その場を円く納めることができるのであれば、馬鹿を演じる側の勝ちです。
確か、伊達政宗の逸話だったとおもうのですが、旗本だったか、小大名だったかに、無礼な言葉を浴びせられても、怒らずに頭を下げたという話があります。
周囲の人達は
「伊達殿ほどのお方が何故に?」
と訝しがりましたが、政宗は
「相手が自分に並ぶほどの大大名ならともかく、喧嘩するに値しない小物故に相手にしなかったのだ。」
と一笑したのだとか。
非がないのに頭ばかりをさげていては、今の日本となんら変わりはありませんが、上手に立ち振舞う上での謝罪は、本当に大切です。
今現在、離婚率が高いのも、男女平等という言葉を吐き違え、主人をたてることができない女性が増えたからではないでしょうか?
図式的にも女性がしおらしく「ごめんね」と謝る姿の方が画にもなるわけで、それができることこそが頭の賢い女性ならではの立ち居振る舞いかと思います。
次に、ありがとうという言葉についてですが、いくら感謝していても、それを言葉にしなければ、相手にも、周囲にも伝わらないことがたくさんあります。
うちの道場では、稽古が終わった後、車で来ている方々が、徒歩で来ている面々を、最寄駅まで乗車していく姿がよく見られ、また、僕自身も、駅前に用事がある時などは、門弟を駅まで乗せてやることがあります。
この時に「これはいかん」と、門弟に諭したことがあるのですが、ありがとうという感謝の言葉のみで、態度が伴っていないと、これは口先だけのものになってしまい、相手には気持ちが伝わりません。
つまりどういうことかと言いますと、
「ありがとうございました」と言って、そのままスタスタ駅へ向かうのと、車が見えなくなるまで頭を下げる、またはその場から動かないという行動が伴うのとでは、相手への感謝の念の伝わり方が全く異なる。
ということです。
自分は何を言うのか、何をしているのか、ハッキリと相手と第三者にアピールすることが、上手に生きていく上で絶対不可欠です。
「ありがとう」を言葉にしていても、相手に聞こえていなければ、「あいつはありがとうも言えない」という悪評が立ちますし、折角何かをしてくれた相手も気分が良いものではありません。
~ 過去の失敗談 ~
僕はそういう点で非常に立ち居振る舞いがヘタでしたし、今でもヘタです。
かつて刀剣商として駆け出しだった頃、通っていた居合道場の館長のご厚意で、平日の稽古がない時間に、道場を使って刀剣の展示即売会をさせてくださったことがありました。
館長には非常に感謝し、初の展示即売会だけに売り上げは芳しくありませんでしたが、僕なりの精一杯のお礼を考え、親父様に相談し、新鮮で美味しい魚介類を調達してもらうのに、数日かかりました。
大きなタラバガニ他、高級食材を手に、館長へお礼に伺いましたが、僕に対する周囲の評価は悪いものでした。館長自身もよく思わなかったかもしれません。
僕としては突然大きなタラバガニを持参して、館長を驚かせたいという気持ちだったのですが、その品を用意するまでの数日間に、周囲からは
「町井は館長にあれだけ世話になっておきながら、誠意が感じられない。」
という悪評が立ったわけです。
勿論、道場を使用させていただいたことに関しては、ちゃんとお礼の言葉を述べています。
しかし、言葉というのは心には残っても、形としては残らないもので、形がない以上、周囲の人々にまでは伝わらないのです。
いきなり驚かせたいと言った子供じみた考えではなく、大人としての立ち居振る舞いが出来ていれば、当時の僕の評価は異なったことでしょうし、株もあがったかもしれません。
この場合だと、事前に館長に
「ささやかな品ですが、お礼に魚介類を調達しております。あと数日でお届けできると思うので、楽しみになさってくださいね。」
の一言があったなら、「道場を使用させてもらって、町井からはお礼がありましたか?」と師範代や他の門弟から質問されても、「なにやらうまい魚介類を用意してくれてるらしい。楽しみだ。」と、館長も笑顔で周囲にアピールされたかもしれません。
しかし、一言がなかったがために、折角用意した魚介類は…
町井は館長に対して謝礼もないのかとの悪評がたったから、後日あわてて魚介類を持参してきた。
というようにしか受け取られませんでした。
数万はたいて用意したお礼の品々は、その意味をなさず、かえって己の評価を下げるアイテムにしかならなかったのです。
このような失敗が僕には多々ありまして、他にも、刀剣界では名高い某氏を訪ねる際、先方から
「遠慮することはない。かしこまった服装で来る必要もない。気を遣わず手ぶらでいらっしゃい。」
との言葉を鵜呑みにし、そのまま伺ったがために、後日、
「町井はわしのところを訪ねてくるにあたって、ネクタイも締めて来なければ、茶菓子の一つも持参しなかった。」
と悪評を立てられました。
こういった失敗の経験からも、自分が何を思っているのか、何をしようとしているのか、ということや、ごめんなさい、ありがとう、と言った言葉は、相手のみならず、周囲にもわかるように、大袈裟なほどアピールする必要があるのだということを学びました。
~ 言葉遣い ~
最近テレビを見ていて気になることに、関西出身のタレントさんの言葉遣いがあります。
例え自分が客という立場であっても、店で目上の従業員に敬語を使わない姿は、感心できたものではありません。
大阪だから、大阪弁で普通に話すこともあるだろう。
なんて擁護する声もありそうですが、大阪弁には大阪弁の目上の人に対する言葉というものが存在します。
「おばちゃん、○○してへんの? ○○やってへんの?」
ではなく、
「おばちゃん、○○してはらへんの? ○○やってはらへんの?」
これが大阪弁での敬語というものです。
それなのに何を勘違いしてか、上下関係を無視した大阪弁を話すタレントさんや、スポーツ選手…
僕はそういうの苦手です。テレビを視聴していて非常に聞きづらく感じます。
~ 目立たなければ損 古の武士から学ぶ ~
武士が戦場で大きな旗指物や、明らかに戦闘には邪魔になるような、奇抜な兜や兜の前立・脇立・後立といったものを身につけるのは、上述につながる、大袈裟なほどの自己アピールのためです。
敵の首を取っては持ち帰るのも、
「自分はしっかり働きました。」
とアピールするために他なりません。
戦術的には、大きな旗指物は移動の邪魔にしかなりませんし、奇抜な甲冑は利便性に欠けるので不向きですが、それでも敢えて自己アピールをしなければ、戦目付と呼ばれる監視役に、自分の活躍を目視してもらえず、そこらに転がっている死体の首を持って帰ってきた程度にしかみてもらえません。
甲冑こそ身につけない現代においても、日々、人生という戦いの渦中に立たされています。
戦目付(世間)はどこから自分を見ているかわかりません。「ありがとう」「ごめんなさい」をはじめ、しっかりと意思表示し、その行動を理解させる必要があるのです。
僕が運営する修心館という居合道場に於いては、過去の僕の失敗からも、居合術を学ぶ門弟の面々には、上手に生きて行くための、しっかりとした自己アピールも、古の武士の生き方から学んで頂きたいと願ってやみません。
これから書くことは、僕の理想、僕の考えであり、僕自身もできていないことばかりです。
自分のことを棚にあげてと思われるかも知れませんが、そういう点は流して読んで頂ければと思います。
~ ありがとう と ごめんなさい ~
人間が生きていく上で、この二つの言葉は非常に大切なものです。
残念ながら我が家ではこの二つの言葉を上手に使える者がおりません。
だからいつも喧嘩に発展する。
例え自分に非がなくとも、一旦その場を収拾するために、敢えて馬鹿を演じる必要も時としてあります。
その場では悔しいかもしれません。
しかし、「ごめんなさい」というたった6文字の言葉を発するだけで、大事にならず、その場を円く納めることができるのであれば、馬鹿を演じる側の勝ちです。
確か、伊達政宗の逸話だったとおもうのですが、旗本だったか、小大名だったかに、無礼な言葉を浴びせられても、怒らずに頭を下げたという話があります。
周囲の人達は
「伊達殿ほどのお方が何故に?」
と訝しがりましたが、政宗は
「相手が自分に並ぶほどの大大名ならともかく、喧嘩するに値しない小物故に相手にしなかったのだ。」
と一笑したのだとか。
非がないのに頭ばかりをさげていては、今の日本となんら変わりはありませんが、上手に立ち振舞う上での謝罪は、本当に大切です。
今現在、離婚率が高いのも、男女平等という言葉を吐き違え、主人をたてることができない女性が増えたからではないでしょうか?
図式的にも女性がしおらしく「ごめんね」と謝る姿の方が画にもなるわけで、それができることこそが頭の賢い女性ならではの立ち居振る舞いかと思います。
次に、ありがとうという言葉についてですが、いくら感謝していても、それを言葉にしなければ、相手にも、周囲にも伝わらないことがたくさんあります。
うちの道場では、稽古が終わった後、車で来ている方々が、徒歩で来ている面々を、最寄駅まで乗車していく姿がよく見られ、また、僕自身も、駅前に用事がある時などは、門弟を駅まで乗せてやることがあります。
この時に「これはいかん」と、門弟に諭したことがあるのですが、ありがとうという感謝の言葉のみで、態度が伴っていないと、これは口先だけのものになってしまい、相手には気持ちが伝わりません。
つまりどういうことかと言いますと、
「ありがとうございました」と言って、そのままスタスタ駅へ向かうのと、車が見えなくなるまで頭を下げる、またはその場から動かないという行動が伴うのとでは、相手への感謝の念の伝わり方が全く異なる。
ということです。
自分は何を言うのか、何をしているのか、ハッキリと相手と第三者にアピールすることが、上手に生きていく上で絶対不可欠です。
「ありがとう」を言葉にしていても、相手に聞こえていなければ、「あいつはありがとうも言えない」という悪評が立ちますし、折角何かをしてくれた相手も気分が良いものではありません。
~ 過去の失敗談 ~
僕はそういう点で非常に立ち居振る舞いがヘタでしたし、今でもヘタです。
かつて刀剣商として駆け出しだった頃、通っていた居合道場の館長のご厚意で、平日の稽古がない時間に、道場を使って刀剣の展示即売会をさせてくださったことがありました。
館長には非常に感謝し、初の展示即売会だけに売り上げは芳しくありませんでしたが、僕なりの精一杯のお礼を考え、親父様に相談し、新鮮で美味しい魚介類を調達してもらうのに、数日かかりました。
大きなタラバガニ他、高級食材を手に、館長へお礼に伺いましたが、僕に対する周囲の評価は悪いものでした。館長自身もよく思わなかったかもしれません。
僕としては突然大きなタラバガニを持参して、館長を驚かせたいという気持ちだったのですが、その品を用意するまでの数日間に、周囲からは
「町井は館長にあれだけ世話になっておきながら、誠意が感じられない。」
という悪評が立ったわけです。
勿論、道場を使用させていただいたことに関しては、ちゃんとお礼の言葉を述べています。
しかし、言葉というのは心には残っても、形としては残らないもので、形がない以上、周囲の人々にまでは伝わらないのです。
いきなり驚かせたいと言った子供じみた考えではなく、大人としての立ち居振る舞いが出来ていれば、当時の僕の評価は異なったことでしょうし、株もあがったかもしれません。
この場合だと、事前に館長に
「ささやかな品ですが、お礼に魚介類を調達しております。あと数日でお届けできると思うので、楽しみになさってくださいね。」
の一言があったなら、「道場を使用させてもらって、町井からはお礼がありましたか?」と師範代や他の門弟から質問されても、「なにやらうまい魚介類を用意してくれてるらしい。楽しみだ。」と、館長も笑顔で周囲にアピールされたかもしれません。
しかし、一言がなかったがために、折角用意した魚介類は…
町井は館長に対して謝礼もないのかとの悪評がたったから、後日あわてて魚介類を持参してきた。
というようにしか受け取られませんでした。
数万はたいて用意したお礼の品々は、その意味をなさず、かえって己の評価を下げるアイテムにしかならなかったのです。
このような失敗が僕には多々ありまして、他にも、刀剣界では名高い某氏を訪ねる際、先方から
「遠慮することはない。かしこまった服装で来る必要もない。気を遣わず手ぶらでいらっしゃい。」
との言葉を鵜呑みにし、そのまま伺ったがために、後日、
「町井はわしのところを訪ねてくるにあたって、ネクタイも締めて来なければ、茶菓子の一つも持参しなかった。」
と悪評を立てられました。
こういった失敗の経験からも、自分が何を思っているのか、何をしようとしているのか、ということや、ごめんなさい、ありがとう、と言った言葉は、相手のみならず、周囲にもわかるように、大袈裟なほどアピールする必要があるのだということを学びました。
~ 言葉遣い ~
最近テレビを見ていて気になることに、関西出身のタレントさんの言葉遣いがあります。
例え自分が客という立場であっても、店で目上の従業員に敬語を使わない姿は、感心できたものではありません。
大阪だから、大阪弁で普通に話すこともあるだろう。
なんて擁護する声もありそうですが、大阪弁には大阪弁の目上の人に対する言葉というものが存在します。
「おばちゃん、○○してへんの? ○○やってへんの?」
ではなく、
「おばちゃん、○○してはらへんの? ○○やってはらへんの?」
これが大阪弁での敬語というものです。
それなのに何を勘違いしてか、上下関係を無視した大阪弁を話すタレントさんや、スポーツ選手…
僕はそういうの苦手です。テレビを視聴していて非常に聞きづらく感じます。
~ 目立たなければ損 古の武士から学ぶ ~
武士が戦場で大きな旗指物や、明らかに戦闘には邪魔になるような、奇抜な兜や兜の前立・脇立・後立といったものを身につけるのは、上述につながる、大袈裟なほどの自己アピールのためです。
敵の首を取っては持ち帰るのも、
「自分はしっかり働きました。」
とアピールするために他なりません。
戦術的には、大きな旗指物は移動の邪魔にしかなりませんし、奇抜な甲冑は利便性に欠けるので不向きですが、それでも敢えて自己アピールをしなければ、戦目付と呼ばれる監視役に、自分の活躍を目視してもらえず、そこらに転がっている死体の首を持って帰ってきた程度にしかみてもらえません。
甲冑こそ身につけない現代においても、日々、人生という戦いの渦中に立たされています。
戦目付(世間)はどこから自分を見ているかわかりません。「ありがとう」「ごめんなさい」をはじめ、しっかりと意思表示し、その行動を理解させる必要があるのです。
僕が運営する修心館という居合道場に於いては、過去の僕の失敗からも、居合術を学ぶ門弟の面々には、上手に生きて行くための、しっかりとした自己アピールも、古の武士の生き方から学んで頂きたいと願ってやみません。