居合考 ~斬るといふこと 6~ | 平成の侍 町井勲オフィシャルブログ『居愛道』Powered by Ameba

居合考 ~斬るといふこと 6~

居合考、引き続き、古の侍と言えども、斬るということがどれほど難しく、また、それだけの腕をもつ人がいかに少なかったのかを知る上で、格好の資料を紹介しましょう。


川越藩「藩邸日記」天保七年(1837)の記事に、


「於川越表斬罪之もの有之、業相勤候もの無之ニ付」


と、川越の地元で斬罪になった者がいるが、首斬り役を勤められそうな者がいないので、江戸の公儀御様御用(こうぎおためしごよう=将軍家の蔵刀の斬味を試す役職)の山田浅右衛門のところに弟子にやっている、自分の藩の長畑親子を「首斬り役」としてわざわざ呼びつけたという旨が記述されています。


お抱えの藩士(部下の侍)はたくさんいたでしょうに、わざわざ江戸にいる藩士を呼びつけていることからも、いかに斬るということが難しいことであったのかが窺えますね。



更に、寛政九年(1797)十二月十六日、播州龍野藩に仕える儒者、股野玉川は、その著書「幽蘭堂年譜」の中で、この日の朝に執行された、牢屋内の罪人の処刑において、斬首役の度重なる失敗で、九太刀目にしてようやく首を落としたと記しています。



そして、先にも記した公儀御様御用(こうぎおためしごよう)で、首斬りを生業としていた閏八代山田浅右衛門吉亮(八代は吉亮実兄吉豊で、吉亮は兄の代役を務めていたため、閏八代または九代とも言われる)ですら、失敗談が残っているほどなのです。


時は1879年、既に侍の世は終わりを告げ、明治となった頃のお話です。
斬首刑から絞首刑に改められ、この日、斬首刑史上最後の女性受刑者高橋お伝 は、吉亮が刀を振り下ろさんとしたまさにその時、

「あの人に一目逢わせて!」

と暴れ出したため、振り下ろされた刀は首ではなく、お伝の後頭部を斬って止まりました。
痛みと恐怖に

「ぎゃあ!助けて~!」

と、暴れまくるお伝。
慌てて吉亮は二太刀目を振り下ろすものの、これも失敗。

目隠しが取れて血だるまと化したお伝の姿は、処刑を見慣れた者ですら、目をそむけたそうで、吉亮は、やっとの事でお伝をうつ伏せに押さえ込み、そこを捻り斬りにして、首を落としたといいます。


このように、いくら首斬り上手の吉亮といえど、動くものが相手となると、思い通りには斬れなかったわけですから、

昔の侍は、さぞかし腕達者な者が多かっただろう

という皆さんの想像は、いかに講談の世界で脚色された剣豪伝に大きく影響されているものかが伺えますね。

よくよく考えて見てください。

落ちてくる雨露を地面に落着するまでに三度斬ったとか、直径30センチを超える木を一刀のもとに斬り倒したなど、様々な逸話が残っていますが、どれも人伝えの脚色された話しであって、それが事実であったと実証する証拠や映像などは一切ないのです。



明日は奉行所から侍に出された面白いお達しをご紹介します。




…つづく