居合考 ~伝承の経緯~ | 平成の侍 町井勲オフィシャルブログ『居愛道』Powered by Ameba

居合考 ~伝承の経緯~

先に書いた日記のコメントに、横さんが非常に良いこと書いていたので、今回は居合の伝承の経緯についてちょこっと書いてみようかと思います。



「居合は敵から身を守るための術」

と解釈されている人が多いと思います。幕末など、実際に刀での戦闘があった時代には、そういった使い方もあったでしょう。だけど、根本的には自らの身を守るための術でありません。


どなたの著書にかかわらず、居合の入門書や書籍では、必ずといってよいほどこう書かれています。


「敵が己に危害を加えようとせんところを…」


つまり、武道の世界でよく言われる「後の先」の術だというわけです。

相手が危害を加えようとするからそれに応じる。

これだと聞こえは非常に良く、立派に大義名分もたっています。


でもね、本来の居合というのはこんなキレイなものじゃないのですよ。

それぞれの流派の起源や発達してきた経緯にもよるとは思いますが、私が修行してきた「無雙直傳英信流」に関しては、明らかに「先の先」の戦闘術なのです。

いや、むしろ先の先ではなく、「要人警護・暗殺のための居合」と言った方が正解です。


修練の度合いによって多少人より早く動くことはできるでしょう。しかし、相手も自分も同じ人間である以上、動きの早さには限界があります。


相手がこちらを斬ろうと、鐔に手をかけ、抜刀しようとしている瞬間に、こちらが先に抜いて相手を斃すなんて神業、ハッキリ言って私にはできません。

この場合、刀を刀で対処しようとする考えを捨て、身を転じて柔術の技で逃げるほかないと思います。

それなのに、居合道ではなぜか「後の先」を謳うわけです。


それは何故か?


居合術とはどういうものかということを、人に知られたくなかったからに他なりません。

目をかけ、育てていた愛弟子がいて、技術の全てを手ほどきし、よく斬れる利刀もプレゼントしたとしましょう。

後になって愛弟子だった人物が裏切り、敵対することになったとしたら…

門弟に与えた刀は取り返すことができますが、門弟に与えた業(わざ)を取り返すことはできません。


あなたならどうします?

当然のことながら、こいつは絶対に大丈夫だろうと、本当に気をゆるすことができる門弟にしか、自分の持つ技術を教えることはしないでしょう?


現代でもアメリカ製の戦車や戦闘機が、他国に販売される場合、その性能の70%くらいしか発揮できないように加工して輸出されるといいます。肝心な30%の性能は門外不出とされるわけです。


同じことが居合の世界にもあり、当然のことながら、それは我が修心流でもあります。

早い話が門弟のレベルに応じて教え方が異なるわけですよ。

短期間の修行しかつんでいない者が、肩書きだけの長ではなく、真の実力を保持している道場・流派の長たる者と果たし合いをした場合、長たる者は相手の刀を容易に封じることができるでしょう。敵である門弟に全てを教えていないからです。いや、むしろ違ったことを教えていたからと言ってもいいでしょう。


謝礼金を(月謝)とって違うこと教えるの?


と思う人もいるかもしれませんが、もっとわかりやすくかいつまんで言えば、初伝の段階では、映画「ベストキッド」のミヤギさん的な指導をしているわけです。

門弟は言われるまま、スキだらけの抜刀を稽古させられます。

が… スキだらけのこの抜刀の中に、実は大変重要な業の奥義が隠されているわけです。その答えは段階を踏み、更に高度な技術が身に付いた時にわかり、後々各業において大いに役立ちます。

でも、何も知らない門弟は初伝で教わったその抜刀の仕方を、本来の居合だと信じているわけです。

この秘められた奥義こそが、俗に言うところの「口伝(くでん)」であり、各流派の虎ノ巻にすらその本来の意味は書かれていません。先にも書いたように、歴代の長が、心ゆるした者にしかその意味を伝えないのです。


現在英信流、またはその流れを汲む流派において、同じ形なのに動きが大きく異なることや、指導者の教え方が大きく異なることの要因は上述したようにこの口伝にあるわけです。


ちょっと例えが悪いかもしれませんが、限られた者にしか口伝は伝承されなかったため、本流は途絶え、一方、数多く存在する口伝を知らない者が居合を広め、延々と繰り返されるビデオのダビングの如く、劣化コピーたる居合が蔓延しているというわけです。


その結果が「居合は後の先」という間違った考えをうんだのだと私は考えています。

いや、居合本来の「要人警護・暗殺術」という意味・目的を隠すためには、長自らが「居合は己の身を守るための後の先の術なのだよ」と教えていたのかもしれません。