この日も朝から晴天に恵まれ、アウシュビッツ第一と第二をジョギングで回る。

監視塔も見えます。ほんとに広大な敷地でした。

走り進めていくとビルケナウの敷地の外れにガス室があった場所に慰霊碑がありました。すでに更地になってます。

左側がオシフィエンチム市(第一強制収容所)、右側にブジェジンカ村(第二強制収容所)の境の看板。

写真の報告に進むとビルケナウが程なく姿を現します。

さて、9時から予約していた英語のガイド付きツアーに参加です。

朝早いですが、修学旅行生を含めて多くの観光客が開場を待ってました。

こんな感じでヘッドホンをつけて付き添いのガイドさんの解説が聞けます(英語はよく分かりませんがなんとなくわかる程度です)。

1940−1945年に少なくとも130万人が来て、110万人がここでお亡くなりになられ

およそ90%がユダヤ人で、主にガス室で殺されたと記載されてますね。

1944年のハンスフランク(ナチスの悪い人)のお言葉

〝ユダヤ人は全て絶滅させなければならない民族だ〝

なんともおぞましい・・・。ホロコーストを象徴する表現です。

ビルケナウでの選別。後ろに死の門が見えます。

私が昨日行ったところですので、当時のままを残してます。

左側に女性や老人、右側に男性のみで、左側に選別された人は直ぐにガス室に送られたようです。

ON THE WAY TO DEATHと左下に記載の通り、ガス室に向かっています。

彼らは消毒のためシャワーを浴びると聞かされておりますので、前の3人の少年達はなんの疑いもなく進んでます。

しかし中央の子の表情は緊張している様子で両隣の子と手を繋いで歩いている様が悲しみを誘います(私見)。

ガス室の模型です。昨日訪れたビルケナウでも破壊されてますが見ることができました。

手前の地下室が更衣室で右の地下室がガス室です。バラックが焼却炉ですが、金歯など金になるものは全て奪って焼いたとのことです。

これが実際に使われた毒ガス(チクロンB)の空き缶です。

輸送されてきた子供の衣服です。

アウシュビッツのバラックの所々に犠牲者の顔写真と没年日が記載されて展示してました。

2日以内にお亡くなりになられらた人や数ヶ月や数年生きられた方、それぞれです。

死の門の絵。

これは鉄棒でなく、絞首台に使われました。

こんな感じです・・・。

脱走を企てた囚人さんと連帯責任で無差別に多くの人が殺されたらしいです。

この他にも写真撮影が禁止の地下室に餓死牢も拝見することができました。

おびただしい数の義足や人間の髪で作られたカーペットが展示されており、これも写真撮影は禁止でした。

人体実験もここで行われたらしく、ナチスはありとあらゆるところで非人道的な殺戮を繰り返した悲劇の場所でした。


こちらの第一強制収容所は元々、ポーランド軍の兵舎として使われていたので、第二収容所と比べて作りがまだマシでした。

しかし、どちらも「生き地獄」には変わりありません。

直ぐにガス室に送られて15分間のたうちまわって逝くか、死と隣り合わせの極限下で限りなく少ない生存を求めて強制労働をするか。

重々わかってこの地を訪れましたが、リアルな空気と砂利道、鉄格子、有刺鉄線、バラック等を拝見すればするほど、当時の重苦しさが伝わってきました。


ガイドはビルケナウでも引き続きますが、昨日行ったことと、午後はクラクフを観光予定でしたので第一強制収容所のみのガイドで退席しました。

この日もガイドさんとガス室を拝見しましたが、ガス室に入るなりガイドさんの声が小さくなり足早に出ていかれたことが1番印象に残りました。