猿橋の謎ふぅ((ミ ̄エ ̄y-~船頭さんが言ってた鉄道の名残も見にいくか( ・`ω・´)あっちだな?hω・^)あれか 鉄道隧道は(`pωq´)あそこから新猿橋の付け根に向かって鉄橋はあったのね(n◎ё◎-)あの隧道はっと(`・ω・´)こんなところに居酒屋があるとは( ̄ι_ ̄)あれがさっきの鉄道隧道の頭・・・(・ิω・ิ)めたんこ居酒屋と合体している(`¬ω¬^;まあいい・・・(`¬◡¬^)アディオス( -`ω-´)当時 甲斐の国を治めていた武田軍は合戦において度々猿橋に陣を張ったという記録が残っており 敵の進行を防ぐために猿橋を焼き落としたこともあったという近くの郷土資料館に江戸時代末期から明治時代初期を復元した模型があった現在の水路橋の場所には もともと水路と滝があったようだ実は 猿橋に関しては創建時期だけでなく 当初どのような形式であったかも解っていない1706年 江戸時代にオギュウソライ(荻生徂徠)の書いた旅行記には「橋の下には柱がなく 両岸から大きな木材が張り出すように重なりあっている」とあり この頃はすでにハネバシ(桔橋)だったようだしかし 別の書物では「昔はカズラバシ(葛橋)だったが 今は桔橋である」との記述もあり 創建当初は吊り橋だったとも考えられている確かに水路も緻密に描かれている走り書きのような道筋は やはり戦法を踏まえての造りなのだろうかやっぱこうやって渓谷を渡ってたのね・・・( ̄∀ ̄)だから言ったでしょ?←いちいち(´゚ ω゚`)渓谷の景色って なんかいいね(n^ー^n)