蕎麦屋通常、蕎麦を食わせる店は蕎麦の専門店、もしくは蕎麦とうどんのみを扱う店であることが多く、これを蕎麦屋(そばや)という。蕎麦屋は江戸時代中期ごろから見られる商売で、会席や鰻屋に比べると安価で庶民的とされる。蕎麦が好まれる江戸には特にその数が多く、関東大震災以前は各町内に一軒もしくは二軒の蕎麦屋があるのがふつうだった。蕎麦屋の起源は不明だが、1686年に江戸幕府より出された禁令の対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、この頃にはすでに持ち歩き屋台形式の蕎麦屋が存在したことが推測できる。これらの屋台形式の蕎麦屋は、時代や業態によって二八蕎麦・夜鷹蕎麦・風鈴蕎麦などとも呼ばれた。当初は、現在のファーストフードのような小腹を満たす食事であり、その後も軽食といった位置づけが完全に抜けることはないままに推移している。この屋台蕎麦屋の伝統は姿を変えて現在の立ち食い蕎麦にまでつづいているといえるだろう。店を構えた蕎麦屋が増えるのは1700年代後半のことと考えられている。蕎麦屋の特色は、蕎麦を中心に品数があまり多くなく、酒を飲ませることを念頭においているところにある。特に東京ではその傾向が強い。現在でも同程度の蕎麦屋とうどん屋を比べると、出す酒の種類は蕎麦屋のほうが多いのが普通である。主なメニューは、各種の蕎麦や酒のほかに、種物(たねもの)の種だけを酒の肴として供する抜き(ヌキ、天麩羅、かしわ、鴨、卵、蒲鉾=「板わさ」など、天ぬきの項も参照)や焼海苔、厚焼き玉子、はじかみショウガと味噌、また場合によっては親子丼などの丼ものなど。また店によっては、茹でた蕎麦を油で揚げた揚げ蕎麦がメニューにあることもある。これは箸休め、あるいは乾き物として酒肴にされる。太平洋戦争以前の蕎麦屋には、蕎麦を食べる以外のさまざまな用途があった。まず、町内の人間が湯の帰りなどに気軽に立ち寄り、蕎麦を手繰ってゆくざっかけない店である。またその一方で現在の喫茶店のように、家に連れてきにくい客と会ったり、待ち合わせをしたりする場合にも用いられた。たいてい一階が入れこみ、二階が小座敷になっていることが多く、二階は込み入った相談、男女の逢引、大勢での集まりなどにも用いられたという。戦後はこうした雰囲気も徐々にうすれてきたが、いまだに味のよい蕎麦と酒を出し、静かな雰囲気でそれを楽しむことのできる店は多く、ほかの料理屋とは違う一種独特な風情を持っているといえるだろう。江戸では、蕎麦を食べることを「手繰る」(たぐる)ともいう。このような言葉を使うこと自体、一つの気取りと言える。蕎麦屋を考える上で逸することができないのが、出前というシステムである。もとより蕎麦は長時間の持ち運びに適さない食物であるが、むかしは蕎麦屋の数が多く、出前の範囲も比較的狭かったために、蕎麦は店屋物の代表格であった。ちょっとした客をもてなすために、あるいは年越し蕎麦を一家で食べるために、町内の蕎麦屋から出前を取る風習は古く、江戸時代から見られるものである。このためには岡持ち(おかもち)と呼ばれる取っ手のついた箱型の道具が用いられ、たいていは店の使い走りが蕎麦を出前し、後で丼や蒸籠などの器を引き取りにゆくことが多かった。勘定は古くは2度目のときにもらったらしいが、現在では1度目のときに精算することが多い。戦後は自転車やオートバイを利用することも多く、高く積み重ねた蒸籠を曲芸さながら肩に担いで片手でハンドルを握る姿は、いっとき蕎麦屋の象徴でもあったが、オートバイでは出前機を用いる方法が普通になり、蒸籠担ぎの曲芸はあまり見られなくなった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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