田中美奈子の多忙極めたデビュー時代 心配した渡哲也さんが撮影中止にしたことも



住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になった映画の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう――。


「先日、『トップガン』(’86年)がテレビ放送されていたので、おじいちゃん、私たち夫婦、2人の子どもと一緒に見て、3世代で楽しめました。トム・クルーズを見て『この人、めちゃくちゃカッコいいね』と言う中1の娘に、なぜか私も誇らしく『そうでしょ!』って答えてしまいました」


そう語るのは、女優で、日本RV協会でキャンピングカーアンバサダーを務める田中美奈子さん(54)。幼いころから芸能界への憧れを抱いていたという。


「小学校低学年のときはパン屋さんになりたかったのに、テレビでピンク・レディーを見て衝撃を受け、“私も歌手になりたい!”と路線変更。友達と振りマネをして、テレビのちびっこモノマネ番組に応募したこともありました」


’80年代になると、『8時だョ!全員集合』(’69~’85年・TBS系)で、松田聖子などアイドルたちがコントに挑戦する姿を目にするようになり、“あの番組に出たい”と芸能界への憧れが強くなった。



「人を笑わせるのも大好きでした。だから、視聴者が芸を披露したり、ゲームに挑戦して賞金がもらえる『所ジョージのドバドバ大爆弾』(’79~’81年・テレビ東京)にも出演したかった。体操服を着た女の子がハードルを跳ぶヨーグルトのCMがあったのですが、クラスの子と一緒に、そのCMをコメディ風にしたネタを考えたりもしました。トイレットペーパーを芯になるまで誰が早く巻き取るか、競争するゲームが番組内にあったので、母に隠れながら練習したり」


■アイドルになってお母さんに家を建ててあげたかった


だが、なかなかテレビに出演する機会には恵まれなかった。


「それでもクラスの子たちは私が芸能界に憧れていることを知っていたから、’84年に『ミスマガジン』に応募したときもすごく協力してくれて。みんなが知り合いにまで頼んで、最終的に1万通あまりの応援はがきが集まったのですが、グランプリは取れませんでした」


手が届きそうでありながら、なかなか届かなかった芸能界。でも諦めることはなかった。


「小4のときに両親が別居して、翌年に離婚。私はおばあちゃんに面倒を見てもらい、母は朝から晩まで働いていました。だから“アイドルになって、お母さんに家を建ててあげたい”という夢もあったんですね」


高校時代は週に1回、千葉の学校からスクールバスと電車を乗り継ぎ、片道2時間かけて六本木まで歌のレッスンに通った。


「いつも遅刻ギリギリで、六本木の芋洗坂を吐きそうになりながら全力疾走していたことを、今でも思い出します」


音楽の趣味が洋楽になったのも、このころ。


「母が再婚して、2番目の父ができたのですが、洋楽関連の仕事をしていて、コンサートのチケットをよく取ってくれたんです。当時はマイケル・ジャクソンやジャネット・ジャクソン、マドンナ、フィル・コリンズ、ワムなどが人気で、MTVも欠かさず見ていたし、来日コンサートがあれば、必ず行きました。カルチャー・クラブのボーイ・ジョージの色気のある声が好きで、『カーマは気まぐれ』(’83年)は、いま聴いても気持ちが上がります」


映画も洋画を見に行くことが多かった。なかでも高校卒業の翌年に公開された『トップガン』は忘れられない作品だ。


「確か錦糸町の映画館で見たと思います。とにかくはやりましたよね。男子はみんなMA-1を着て、レイバンのサングラスをして。トム・クルーズが映画で身につけていた軍の認識プレートは、私も持っていました。戦闘シーンの撮影はアメリカのサンディエゴで行われたそうですが、うちの夫が以前、その基地の近くに住んでいたんです。私も実際に現地まで行って、あの爆音を近くで聞いてみたい! と、いまだに思っています」


映画音楽もまた魅力的だった。特にテーマ曲になっている、ケニー・ロギンスの『デンジャー・ゾーン』が好きだったという。


「あの曲を聴くと、血が騒ぐというか、生命力が湧き上がってきて、“自分も何か大きなことができるんじゃないか”と思えるんです。『フラッシュダンス』(’83年)もそうですが、サクセスストーリーで、夢がありましたよね。当時の映画や音楽には特に、人の背中を押してくれるパワーがあったと思うんです」


■イエイエガールズのオーディションはスタイル抜群の受験者ばかり


おかげでレナウンのキャンペーンガールを務める「イエイエガールズ」のオーディションにも、前向きに取り組めたと田中さん。


「前年まで『イエイエガールズ』はモデルさんが務めていて、身長も167センチ以上必要だったのですが、私が挑戦した年は歌手志望の女性も募っていて、身長制限がなかったんです。ところが選考会場に集まっていたのは、目がぱっちりで背が高く、スタイルのいい人ばかり。“それでも、絶対に受かる!”という意気込みで、オーディションに臨めました」


こうして’87年、オーディションを初めて突破し、芸能界の舞台へ上がったのだった。


それからはテレビドラマの仕事が徐々に入るようになり、中山美穂主演の『君の瞳に恋してる!』(’89年・フジテレビ系)など、話題の“月9”にも出演。多忙を極めるように。


「ゴルフトーナメントの会場で優勝者に花束を渡すためだけに、ドラマの撮影現場からヘリで移動して、トンボ返りしたことも。『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(’89~’90年・テレビ朝日系)の撮影のとき、現場に入る車の中で、私があまりにもぐったりしているのを見た渡哲也さんが、心配して『誰だっ、美奈子をこんなにしたのは! 今日は休ませる』と、撮影を中止にしてくれたこともありました」


そして’89年には『涙の太陽』で念願の歌手デビュー。数々の人気ドラマへの出演もかなえた。


こうして芸能界という夢の舞台で活躍するようになった田中さん。’00年代に入ったころ、当時の事務所スタッフのつながりで、デビュー前に勇気を与えてくれたトム・クルーズと食事をする機会が訪れたという。


「おすしを食べるお誘いの電話があったのですが、仕事が重なっていて出られず……(涙)。ちょうどその時期、トム・クルーズは独身だったので“あのときご一緒していればなぁ”なんて妄想したりして(笑)」


『トップガン』を見るたび、千載一遇のチャンスを逃がしたことを思い出すのだった。