『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(ゴリラ けいしちょうそうさだいはっぱん)は、1989年4月2日から1990年4月8日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜20:00 - 20:54(JST) に全46話が放送された、石原プロモーション制作の刑事・アクションドラマ。




ストーリー


台北郊外のゴルフ場で、日本の大手ゼネコン重役夫妻の誘拐事件が発生。犯人グループは秋葉礼次を首領とする国際強盗団であることが判明するが、日本と国交がない台湾では現職の警察官が表立って捜査活動を行うことは不可能だった。警視庁刑事部長の麻生公義は、西伊豆の漁村で静かに暮らすある一人の男に望みを託す。男の名は倉本省、41歳。元警視庁捜査第一課部長刑事。


秋葉グループの襲撃によって漁師仲間と平穏な生活を奪われた倉本は、新たな仲間たちを従え、フィリピン奥地を舞台にした激しい戦闘の末に秋葉グループを壊滅に追い込む。だが同時にそれは、多様化する凶悪犯罪との壮絶な死闘の幕開けでもあった。1989年4月、警視庁捜査第8班、通称“ゴリラ”が誕生した。



特徴編


1987年の石原裕次郎の死去を経て、本格的な制作活動から遠ざかっていた石原プロが、『ただいま絶好調!』(1985年)から3年半振りに手掛けたテレビドラマである。企画当時流行しつつあったサバイバルゲームや映画『ランボー』シリーズなどの影響下にあり、コマンド色を強く押し出した無国籍アクションとして企画された。舞台となる第8班の初期設定も、警察組織から独立した傭兵部隊としての色合いが強く、コンバットスーツを多用するなどあくまでも「刑事」とは異なる存在として位置づけられていた。もっともこうした位置付けも、番組中盤以降の作風の変化とともに、警察手帳を所持しない単なる刑事といった形へとなし崩し的にシフトしていった。服装もコンバットスーツを使用する頻度は減り、後期オープニングに見られるように当時のバブル景気を背景に流行したDCブランドスーツを着用することが多くなった。



第1話冒頭に設けられた古舘伊知郎による前説[注 2]では、かつて同時間帯にて放送されていた『西部警察』(1979年 - 1984年)の存在が前面に押し出されており、番組制作の面でも同作品の姉妹編的な位置付けが志向されていたが、実際の視聴率は期待を大きく下回る結果となった。そのため、2クール目前後からはハードなイメージを強調した横文字のサブタイトルを廃止し、番組冒頭にもその回のダイジェスト場面集を紹介するなどのテコ入れ策が取られたが、視聴率の上昇には繋がらなかった。さらに、番組初期の撮影中に発生した負傷により、渡哲也自身によるアクションシーンが格段に減ったこともあり、初期に志向されていたコンバット&コメディ路線から、次第に『西部警察』と同様の爆破シーンや地方ロケを売り物にした物量アクション、そして最終クールである第36話以降からの人間ドラマ路線へと、作品のトーンも段階的に変化していくこととなった。また第36話以降は、脚本監修に『大都会 闘いの日々』(1976年)のシリーズ構成を務めた倉本聰を迎え、アクションドラマとしての体裁は維持しつつも、言葉を失った妻を献身的に介護する倉本、それに病魔に冒された伊達の姿を軸に据えるなどの大幅な路線変更が図られた。



広告代理店を介さない中抜き方式で制作されていた『西部警察』とは対照的に、本作品では広告大手の一角を担っていた第一企画(現:ADKホールディングス)も制作に加わっており、当時同社が広告責任社を務めていた三菱自動車工業を筆頭に、東芝、三菱石油(現:ENEOS)による全面タイアップ体制が図られた。このうち三菱自動車は車両提供、東芝、三菱石油はタイアップに加え、日興證券(現・SMBC日興証券)などと番組提供を兼務した。


海外ロケ篇である第1話では、フィリピン大統領府全面協力の下、現地の住民がエキストラとして大量に参加したマニラ市街地での大規模なロケーションの他、熱帯雨林における戦闘シーンの撮影では実銃や軍用ヘリコプターなどが貸し出され、さらにコラソン・アキノ大統領(当時)の義弟であるアガピト・アキノが、倉本たちに協力する元レンジャー部隊指揮官として出演。現地では渡哲也らが大統領を表敬訪問するなど、国家的規模の制作体制が敷かれた。福岡市が舞台となった第10話では、開催中のアジア太平洋博覧会で撮影が行われたが、1日で3万8,000人の入場者があった1989年4月17日の7:00~19:00の間に撮影を終えている。