無関心から生まれる悪 | coffee house  

無関心から生まれる悪

          

 NHKのドキュメンタリーに触発されて『アウシュヴィッツ収容所』を読みました。著者は、アウシュヴィッツ収容所の所長を3年半務め、ユダヤ人をはじめ、反ナチスの多くの人々を死に到らしめたルドルフ・ヘスです。

 

 やっぱりアウシュヴィッツは地獄です。ガスやチクロンB(青酸剤)での大量殺害、銃殺、衰弱死など目を覆いたくなるような「死」が溢れています。ナチスの極限的な「悪」はいうまでもありませんが、それ以外にも看守(抑留者から選ばれる)の囚人いじめや虐待があり、抑留者の同朋殺しと人肉喰い、女性抑留者の売春と自己中心的な欲望、障害者・同性愛者・子供の無慈悲な殺害、ほんとに凄惨です。

 でも、そこに描かれているのは、惨殺や虐殺などといったむごたらしさ、人間の残虐性、サディスティックな欲望なんかではない気がします。(むしろそういった陰険さや邪悪さは下の階級のSS<ナチス親衛隊>や抑留者の間に見受けられます。)ナチスの幹部や上の階級のSSに見られるのは、完全な無関心と無感覚と想像力の欠如です。つまり現代(日本社会)においてもそこかしこに見られる、非常にありふれた一般的な感覚です。

   

 ヘスは看守を三態に分けて記しています。

 邪悪な看守:囚人を下等の人間としてみて、精神的、肉体的虐待を繰り返す。

 無関心な看守:囚人をモノとしてみて、囚人に対して冷淡で無関心。

 善良な看守:囚人に対して共感し、同情心をもって少しでも良い待遇を目指す。

この分類はそのままナチス党員にも当てはまります。そして多くの幹部が②番に入ります。

  

 SS全国指導者のヒムラー(この計画の最高責任者)が幹部にアウシュヴィッツの視察を命じます。

                    

 ヒムラーは、ユダヤ人虐殺を見させるために、党やSSの高級幹部たちを、たびたび、アウシュヴィッツへよこした。誰もが、それから強い印象をうけた。それまで、この虐殺の必要をおおいに力説していたある者たちが、「ユダヤ人問題の最終的解決」のこの光景を見学すると、すっかり黙りこんで口をきかなくなってしまったことだった。

 そんな時、いつも私は訊ねられた。私たち担当者は、こんな場面を、どうやって絶えず見つづけていられるのか。どうやって、われわれは、それに持ちこたえられるのか、と。私は、いつもこう答えた。総統の命令を貫徹しなければならぬ以上、鉄の不屈さで、あらゆる人間的感情を沈黙させねばならぬのだ、と。このお偉方の誰もが、自分にはとてもこの任務にはもちこたえられない、と白状したものだった。

    

  つまり機能的側面(枠組み=ハード面)に対する関心が強いあまりに、中身(ソフト面)へは無関心に陥ってしまっています。「ユダヤ人=反ドイツ」という枠組みには目が行く。でも、ガス室に入る一人一人に対しては想像力が働かない。働いたとしても、表層的で安易で感傷的な部分しか感じ取れない。「殺すのはちょっとなぁ」という程度。ちょうど僕たちが自分の愛犬に対する様々な想像力を、保健所で殺される野犬に対して働かせないのと同じように。ナチスはユダヤ人を「安楽死」させるんです。効率がよく、処理がしやすく、苦悶を感じさせずに殺せるから。でも、実際に今生きている一人の人間が(子どもが親から引き離されて)ガス室に入る直前を目にすると、その個別の苦しみ、嘆き、悲しみがひしひしと伝わってくる。目を背けたくなるほど、無条件に想像力がかきたてられる。

    
           

 邪悪に、残虐に人を殺すんだったらあんなにも多くの人を殺せないんです。「虐殺」なんて言葉を聴くとある種の残虐非道な精神の異常性のもちぬしを感じさせるけれど、人の歪む顔を楽しむような人間には何十万人も何百万人も殺せません。だってまとめて安楽死させても楽しくないし、残虐に殺してもそのうち飽きてしまう。無条件に大量の人を殺せるのは、ある意味においては一般的な性向のもちぬしで、囚人に対して無関心で想像力が欠如して無感覚に陥った状態の人です。

      

   

 今月は終戦60周年を迎えたこともあって、歴史問題を取り扱った番組が多かった。それを見ていて僕は少し不安になりました。一方的に中国・韓国を批判する人たちや、あの戦争を(ある部分で)正当化する人の話を聞いていると、どうしても国の政策という大きな枠組みだけにしか目が行っていないような気がしてなりません。そこに住む現代の人や過去に日本軍に被害を受けた人を十全に想像しているようには見えません。

    

 僕は、南京大虐殺はなかったと思いますが、一般人の陵辱と殺戮はあったと思います。また、731部隊の人体実験はあったし、中国人はその実験材料になりました。大東亜共栄圏や八紘一宇の精神をもっていた軍人もいると思いますが、そんなものを一切もたなかった軍人もたくさんいると思います。自衛のために戦争を始めようとした人もいれば、ただ侵略のためだけに始めた政治家もいると思います。現地の人を労わった軍人もいれば、虐げた人もいると思います。日本国、日本軍人というわかりやすい枠組みだけでみるととても大切な何かを見失ってしまうように思えます。

  中韓の歴史認識の歪みは是正しないといけません。でも、日本の歴史認識もあるいは現代の中韓認識にもかなりのバイアスがかかっています。

   

 僕はこの本を読んで改めて、アメリカのイラク侵攻はかなりひどい悪だと思うのですが、「別にそんなの日本に直接関係ないしどうでもいいや」っていうのは、ものすごく危険なことだと思いました。(実際にはそれに日本も加担したわけだし・・・)


ルドルフ・ヘス著 片岡啓治訳 『アウシュヴィッツ収容所』(講談社学芸文庫:1999年)