旧大野 丈助邸を後に通りに出ると、

 

車1台しか通れない細い道が日在海岸に向けて延びています。

 

そこを少し進むと梅屋 庄吉の別荘跡地に出ます。

 

今日は梅屋 庄吉と

 

関わりの深かった蒋介石について投稿しました。

 

 

 

細い道を通り抜けると急に視界が開け、

 

石碑が目に止まります。

 

 

 

石碑には梅屋別荘跡地、梅屋庄吉愛用の井戸と

 

刻まれいています。

 

梅屋 庄吉とはどのような人物だったのでしょうか。

 

 

 

詳しいことは分かりませんが、

 

石碑の横のこの道が別荘に繫がっていたと思われます。

 

 

 

敷地の広さも不明ですが地元の建設業者が別荘跡地を買収

 

別荘地として分譲しています。

 

 

 

分譲地は海岸の高台にあり眺望も絶景です。

 

遠くに見える太東岬には灯台があります。

 

 

 

 

分譲地は広く未だ未だ売れ残っています。

 

この地に別荘を所有していた梅屋 庄吉(1868-1934年)は

 

日華親善に生涯を捧げ慈父と仰がれました。

 

梅屋は1934年11月15日、廣田弘毅外務大臣の要請を受け、

 

日中平和交渉で蒋介石に会うために

 

別荘から三門駅に向いました。

 

ところが駅頭で倒れ急遽別荘に戻りましたが、

 

11月25日に亡くなりこの地が終焉の地となりました。

 

梅屋 庄吉と蒋介石との関係は深く、

 

蒋介石は梅屋の新宿区百人町の自宅で宋 美齢と挙式、

 

日在の別荘に滞在していたことがあります。

 

 

 

 

わが家から国道128号の江場土の信号の近くには、

 

「以徳報怨」と刻まれた石碑があります。

 

これは蒋介石が説いた四文字で、

 

その意味は「徳を以て怨みに報いる」と言うことです。

 

蒋介石は第二次世界大戦終了後、日本の国体変革、

 

分断占領の非を強く主張し、

 

日本に戦争賠償すら求めませんでした。

 

 

 

案内板には蒋介石と共に

 

梅屋 庄吉のことも触れられています。

 

梅屋は義兄弟の盟を誓い合った親友孫文のために

 

私財を投じて革命を支持し、新生中国誕生に貢献しました。

 

梅屋の別荘には亡命中の国父孫文が秘かに身を寄せ、

 

蒋介石も屡々ここを訪れました。

 

近くにこうした歴史が刻まれ残されていることを、

 

土地の人にも熟知して欲しいと思っています。