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 大野 丈助の墓前に立つ時、その墓は丈助が如何に巨大な財力を持っていたかが

うかがわれる。墓石は巨大と言っても過言でなく、迫って来るような感さえする。


 お墓の裏面には当時の人たちの普通のお墓があるが、これらと比べれば大野家の

お墓がどれほど大きいか歴然である。

 
 そこから少し離れた木陰ににひっそりと建つ二つのお墓がある。右側の墓石は

当時としては大変は珍しく十字架である。左側の墓石には大野家之墓と刻まれ

ている。これが昔からの大野家之墓であったのであろう。


 ところが財を築いた丈助が大正12年5月31日に、財にものいわせて新たに

大野家之墓を建てたのである。


 古い大野家之墓が何時建てられたのか読み取れないが、十字架のお墓には

大野 巌之墓とあり、裏には昭和5年4月と刻まれている。巌は大野家の古い

お墓にでもなく、また、既に出来上がっていた新しいお墓にでもなく、一人

別に十字架のお墓に葬られた。それは巌がクリスチャンであったことを物語って

いる。

 巌はイギリスに留学しやがてイギリス人と結婚、大学の教授となった。

このイギリス時代に信仰を持ったに違いない。80年近く前にこの所に十字架の

お墓が建てられたということは、巌がかなりはっきりした信仰を持っていた

ことがうかがわれる。


 丈助にまつわる話しとして丈助は太東の地に、1.000坪の敷地を持つ屋敷に

別荘を建て、これを大隈 重信に贈呈した。また、この大隈 重信に呼ばれ

清水 次郎長に会った。その時丈助は次郎長の威厳と風格の前に、ただ、平服

するばかりであったそうである。次郎長は丈助から鉄道敷設の経験を聞こうとした。

次郎長にはその腹積もりがあったのである。


 国道128号線をただ走り抜ける人には知りえぬことであるが、この地には思わない

数々の歴史が刻み込まれている。