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 農閑期に入り郷土史家S氏の案内で由緒ある土地を巡り歩きました。今日、

最初にご紹介するのは梅屋 庄吉の別荘です。

 
 国道128号線から少し入った所に槇の木の生垣に囲まれた道が海辺に向かって

続いています。300mほど進むとそこに梅屋 庄吉別荘跡地の碑が立っています。


 梅屋 庄吉は香港で写真館を開業していた時孫文と邂逅、その後シンガポールで

映画事業に成功した梅屋は生涯を通じて孫文に財政的援助を続け、1914年には

大久保の梅屋邸で孫文と宋慶齢の結婚式が執り行われました。酒宴に入り

犬養 毅は祝福の謡を始めたそうです。


 1931年、梅屋夫妻は蒋介石より国賓として招待されますが、1931年1月上海事件が

起きた時、梅屋は日本の将来を憂慮し陸軍首脳部と話し合い、日本側は蒋介石と

じっくり話し合い確定的な了解を取り付けること、東洋平和のためにはこれ以上の策

はないと力説しましたが、陸軍の首脳はこれを受け付けませんでした。

 
 梅屋は蒋介石に書簡を送り、日支親善のための意見を問いかけましたが、

その努力も空しく中国との和平交渉は失敗しました。しかし、戦争反対の梅屋は

日中との和平交渉を諦めず自分が中国に行くことを決意し、1934年2月広田外相と面談し

その席で、中国に赴き国民政府首脳との話し合いの場を作るよう依頼されました。


 庄吉はこれを快諾し、中国に行くために12月15日、三門の別荘を出て外房線三門駅を

7時30分発の列車に乗るべくホームに立っているうちに昏倒、容体は悪化し12月23日

急逝しました。67歳でした。


 この三門の別荘には1927年亡命した蒋介石が半年ほど住み、梅屋は宋 美齢との結婚を

提案しこれが実現しました。蒋介石はこの別荘から週に1.2度3時間ほどかけて東京に車で

通ったと言います。


 梅屋 庄吉の別荘跡地を訪ね、そこに思わない歴史が刻み込まれていることを知り、

深く感動させられました。


 梅屋別荘は今は無く、広大な敷地は別荘跡地として売り出され、現代風な別荘が

立ち並んでいます。梅屋別荘のほんの少し先にある白い建物が、森 鴎外の別荘です。

 建物は当時のものではありませんが、鴎外は別荘地を選ぶに当たりこの地と高知を

選びましたが、医者でもあった鴎外はここはオゾンが豊かで、水も綺麗だということで

三門に決定しました。林 芙美子も鴎外を慕ってこの地に暫く滞在したことがあります。

 
 別荘地を抜けると魚や野鳥が生息する日在潟があり、ここは南房総国定公園に

指定されています。海岸には海がめが産卵のためにやって来ます。三門の別荘地は

軽井沢よりも古いと、土地の人は言いますがが、この地が早々と別荘地になった事情が

分かるような気がします。


 この地にはこの他にも興味深い歴史が刻み込まれています。