長崎の駅前のホテルで1泊し、どうしても参加したかった、カトリック浦上教会の6時からの朝ミサに向かいました。ギリギリ遅刻しそうだったので、歩いている途中で、タクシーを捕まえ、30分前に到着すると、空がぼんやり朝焼けの中、月が出てました。
信徒総流配から50周年を記念して建てられた記念碑「信仰の礎」
信徒発見150周年を記念して設置されたレリーフ
すでに、進行役の方の仕切りで聖堂では、祈りが始まっていました。
昨日の大浦天主堂でのミサでもそうですが、ミサが始まる前から、ミサが始まっているような進行、、、長崎教区のミサはそんな感じなんですかね。祈りが深まりそうです。毎朝、続けられていることに羨ましさを感じます。
カトリック浦上教会の信徒たちは、1945年当時、12,000人いらっしゃったそうですが、原爆で約8,000人の方が亡くなられたとのこと。やっと、信教の自由が保証されて、ミサに与ることができるようになったのに、不幸はまたこの地に襲ってきました。(浦上小教区変革史に詳しく書かれています。ご一読ください)
私の眼の前の祭壇には、被爆されて、顔も手も足もない十字架上のキリスト像、被爆十字架が、ありました。2021年に来たときにはなかった記憶なので、四旬節の間だけ、聖堂に安置されるのかもしれません。「聖年の扉が開く時に"その聖堂に一番相応しい十字架を掲げて入堂し、聖年の間掲示すること"というルールがあって、長崎教区では、中村大司教様があの被爆十字架をお選びになりました」と、東京に戻ってから、浦上教会のはなさんに教えていただきました。
(教会内部が撮影禁止のため、私の拙い絵で失礼します)
有名な被爆のマリア様も、小聖堂でわたしたちを見守ってくださっていました。
中野 健一郎神父さまの心温まる優しい雰囲気のミサが終わって、次に行きたいと思っていた十字架山の行き方を、近くにいた方にお聞きしていた時「東京から来られた方ですか?駅に戻るとかでしたら、車に乗っていかれませんか?」と声をかけてくださった方がいらっしゃいました。聞けば、地元の方で、もう一人、千葉から来られた方を案内しながら、長崎を巡礼されているとのこと。
言い淀んでいると、再度「次どこに行かれる予定ですか?」と声をかけて頂きました。「ここから十字架山まで歩いていって、その後、杉本ゆりさん(信徒発見の時に「ワタシノムネ、アナタトオナジ(あなたと同じ信仰を持っています)」と神父様に話した方)のお墓参りに行きたくて」とお話したところ、「この雨で十字架山まで行くのは無理ですよ。途中迷っても住宅街なので、慣れない人が一人で歩くと、たどり着けなくなる可能性もあります」と言って頂き、ありがたく車に便乗させていただくことになりました。(この話は次回の十字架山へつづく)
浦上地区で起こった悲惨な出来事は、全部人が始めたこと。
2015年、ベルリンに視察でいった時、第2次世界対戦で起こったユダヤ人迫害のモニュメントをあちらこちらで見た。直近では、2005年にホロコースト記念碑が経っていた。忘れない、風化させない、そんな意志を感じた。
人間は忘れる。風化するから戦争が始まる。基本的人権が保証されなくなる可能性があることを、浦上は私に、またしても、教えてくれた。
平和であることを当たり前にしつづけるために、過去の悲しみから目を背けてはだめだと思った。そうでなければ、その時代を生きた先達に申し訳が立たない。
いま、私に何が出来るだろうか?何か小さなことでも出来ることを考え行動したい。神様に相談しよう。祈ろう。
このブログを書きながら、ずっと頭の中に鳴っていたTazeの讃美歌
教派 カトリック
創設日 1879年
守護聖人 無原罪の聖母
忘れてはいけないこと
カトリック浦上教会外観
1945年(昭和20年) 8月9日
長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊。投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・ラファエル西田三郎、助任司祭・シモン玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡。
(中略)
原爆資料保存委員会は、1958年(昭和33年)に「旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する」と提案した。しかし山口愛次郎司教はこれに対し、「天主堂の立地は、キリスト教迫害時代に信徒たちが踏み絵を強いられた庄屋屋敷跡であり、その土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが、移転は信仰上到底受け入れることはできない」という意思を決定した。