わたしは、カトリック松原教会で毎週火曜日10時に開催される、「旧約聖書」勉強会に参加しています。4/23は、出エジプト記34章が題材でした。

 

私が一番印象に残ったのは、モーセの顔が光ったところ。

もしかしてこんなこと言ってはいけないのかもしれないですが、「旧約聖書」を読み進むうちに、モーセに中間管理職の悲哀を感じています。

 

モーセは、神様からエジプトを出、約束の地「カナン」に行けと命じられ、神様との契約を勝手に破るイスラエルの民を率いて40年間歩き彷徨う日々、、、、。

カナンの地あと一歩で、モーセは神様よりの命で約束の地に入ることが叶わず、若手のエースにあとは任せ、1人静かに亡くなっていくというなんともさみしい最晩年。

神様は、新しい土地は新しい人でがんばって!という気持ちだったのでしょうか?

 

そんな後年そんなことになる、モーセの顔をこの時、神様は光らせた。この時も、イスラエルの民が、モーセと神様が話している間に、契約を守らず、若い雄牛を鋳造して崇めていたことが発覚し、一悶着あったあと、神様と再度契約のし直し後に起こったこと。モーセは特別なのだという神様の意思、信頼、お恵みが注がれたことに、ホッとし、感動します。

つまり、現代風に言うと、中間管理職の取り成しでチーム全体のおとがめがなくなったってことと認識しています。

 

モーセは、神様とお話しているときと、神様の言葉をイスラエルの人々に告げるとき以外は、顔を覆った。どこまでも、モーセは謙虚で、ほんと尊敬します。

モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の肌は光を放っていた。(中略)

 

モーセは、神の御前に行って主と語るときはいつでも、出てくるまで覆いを外していた。彼は出てくると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々が、モーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って首都語るまで顔に覆いを掛けた。

-出エジプト記34章 29節~30節、34節~35節 新共同訳

 

そんなわけで、恐れ多くも旧約聖書を現在生活になぞらえるとどんな感じなのか考えるのがわたしは好きです。認識が間違っていたらお知らせください!

今日も講座があるので、気付きがあればシェアしたいと思います!

ちなみに、アーロンは、モーセのお兄さんです。