リダと母の闘病日記~脳腫瘍と向き合う~看取ったその後~今度は夫が悪性リンパ腫に(R3年2月) -8ページ目

リダと母の闘病日記~脳腫瘍と向き合う~看取ったその後~今度は夫が悪性リンパ腫に(R3年2月)

H27年2月に母がグレード4の膠芽腫と診断されました。母の事や日々の出来事を綴っています。H29年8月14日に永眠、H30年3月7日に父が突然死。そしてR3年2月に夫が悪性リンパ腫に。。。

15日に通夜が終わり16日に葬儀、火葬、初七日まで行いました。

 

遠方からまた来てくれる親戚の事を考えて11時からの開始にしました。

お通夜にたくさんの方が来てくれたので葬儀は母の望む身内だけの式になりました。

 

お坊さんのお経、お焼香、お坊さんの話と進んだ所でバイオリンとフルートの生演奏があり

母の好きだった美空ひばりの「川の流れのように」を弾いてもらいました。

この曲を聴くと小さい頃からの母との思い出が蘇ってきて、号泣でした。。。

 

父も同じく泣いていたのでその後の喪主挨拶まで引きずってしまって。。。

現職中は人の前で話をする事が日常だった父が言葉が詰まってしまい・・・でも最後までちゃんと挨拶できたのでよかったです。

 

その後、棺桶の中の母にお花を入れていきました。祭壇に飾っている花、皆さんに頂いたたくさんの花で囲まれた母はとってもきれいでした。

火葬場ではもう顔を見る事ができないと言われ、ほんとにこれで母を見れなくなるんだと思うと・・・・もうもう涙腺が崩壊してしまいました。

 

それから出棺・・・

マイクロバスで火葬場に向かいました。

火葬場に着くと1~9の番号があり、母が3番の焼く所に入っていってしまいました。。。

父が火をつけるスイッチを押しました。なかなか押せない父を見ていていたたまれなくなりました。

火葬場へは父と私の家族、兄の家族、受験のために3年間一緒に暮らしたいとこが1人来ただけだったのでホントに身内だけで見送りました。

 

母が火葬されている間、頼んでいたお弁当を食べました。葬儀場の係りの方がついて下さってお茶やコーヒーを準備してくれ、私はご飯が喉を通らずコーヒーばかり飲んでました。。。

 

いとこを交えて小さい頃の話をしたり母の思い出を話していると放送で母の名前が呼ばれました。火葬の時間は大体1時間20分くらいだったと思います。

 

こんなにすぐに焼かれてしまうんだ・・・・

 

母は骨になって帰ってきました。。。

 

それから、担当の方に言われるがまま、骨の説明を聞きながら箸渡しをしたり順番に骨壺に母の骨を入れていきました。あまりにも淡々と進めていくのでこの時は涙がでませんでした。

大腿骨骨折をした左足の股関節には人工骨頭を埋められていたチタン製の物がそのまま焼かれず残っていました。母の足を支えてくれてありがとう。。。

 

これで火葬は終わり、20分程かかって葬儀場に戻りました。

帰りのバスの中では母の遺骨を持っているにも関わらず、あまりの疲れから寝てしまった私です。お母さん、お骨になったばかりなのに、ごめんね。。。でも絶対落とさなかったからいいよね。許してね。

 

葬儀場に戻り、初七日まで行いました。

 

全て終わって実家に帰り着いたのが16時過ぎ。。。

頂いたお花の残りを花瓶に生けて、遺影写真を飾り・・・

 

やっと家に帰ってこれたね。お母さん。。。

 

着替えを済ませた頃、何人かのご近所さんが来られて葬儀場から帰った後もバタバタと過ぎた1日でした。

 

 

 

 

今日は母の初七日・・・・

 

家族で何をする訳でもなくいつもの様に母を想いながら実家で皆で過ごしました。

兄の子供たちもそれぞれ順番に帰って行き寂しくなりました。

 

明日までお休みを頂いているのですが、葬儀場の支払いや借りているベッド、車いすを取りに来たり、書類関係でまた役所に行かなきゃなので忙しくなりそうです。

 

昼間は何かと動いているので紛れるのですが・・・・

夜になると・・・・寂しいですね・・・・

 

排便カレンダーを作ってチェックしていた日が懐かしいです。。。

来年の3月まで作っていたのに・・・・( ;∀;)

 

ふさぎ込んでいた父が今日は掃除をし始め、以前の頑固さも出てきたので安心しました。

少しずつ少しずつ・・・・・母のいない暮らしに慣れていこうと思います。

姿はなくても、心の中にずっといるので、きっと大丈夫!

 

 

 

母と同じ病で戦っていらっしゃる皆様、そしてご家族様、今回この様にリアルに母の事を記事にした事で不安な気持ち・不快な気持ちになられましたらほんとに申し訳ありません。

 

母は2年半という闘病生活でしたが、本当に最期は穏やかに旅立つ事ができ、私たちも母の願いを叶える事ができました。

ギリギリまで諦めず治療もしてデイサービスも皆勤賞でお風呂まで入る事ができました。

治療に関しても介護に関しても、後悔はありません。自己満足かもしれませんがやり切った気持ちです。

32㎏になるまで、生き抜きました。人はこうして枯れていくんだという事を母は身を持って教えてくれました。

 

この2年半、いい事ばかりではなく、家族共々辛い事もたくさんありました。母を想うが故に喧嘩もしました。でも、今となってはそれも貴重な思い出です。

 

どうぞ、今の時間を大切に過ごされて下さい。

そして皆様が穏やかにお過ごしできます様に陰ながら祈っております。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。

 


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15日は、ほとんど寝ていない状態でしたが・・・父の年金日で通夜、葬儀、火葬で支払う現金を下ろしに銀行へ父と行きました。

取りあえず必要なのはお坊さんへのお布施代が14万5千円、火葬代が9千円。その他は後からまとめて精算するとの事。。。

宗派でお布施代が違う様です。全然わからない事ばかりで今回勉強になりました。

 

14日に最後の夜を過ごした母を13時前に葬儀場の方がお迎えに来られました。

白い布に包まれて父が同行して葬儀場に行きました。

私たちも喪服や着替えを13時に間に合う様に家に取りに帰っていたので一緒に葬儀場に向かいました。

 

葬儀場に着くと今晩休む控室に案内されました。

この控室の広さと豪華な事に驚きました。まだできて数年しか経っていない事もあるのでしょうがとにかく綺麗で・・・・。フローリングの部屋に畳の部屋、洋室はダブルベッドが2つありまるでホテルの様でした。

 

荷物を置いたらすぐ湯灌の儀が始まりました。

2人の方が母をきれいに洗って下さって・・・・とてもきれいな肌ですねと・・・

私たちもお湯を足から胸までかけてあげました。

お風呂が大好きだった母ですのできっと喜んでいたと思います。

昨夜着せた手作りのスーツをまた着せてもいいとの事でしたが、スーツは手元に残したかったので白装束にしてもらいました。きれいにお化粧もしてもらって美人さんになりました。

途中で汚物がでたりする事も口が開いてしまう事もなく火葬の時まできれいなままでした。

13時過ぎに始まり14時頃には終わった記憶があります。

 

湯灌の儀が終わると控室に戻り、お通夜で出す飲み物やおつまみを買いに行きました。

葬儀場でも飲み物は頼めるのですが隣りに大型スーパーもあったのでそこで準備しました。

 

帰った後、喪服に着替えしばらくゆっくりしていると16時すぎに担当の方が来られて通夜の流れや料理の出し方、受付、お布施を渡すタイミングなどの話をしました。

 

その時に例の遺影写真が届いて・・・・

「お母さんはこんなに太ってない・・・お母さんじゃない・・・」

となってしまった訳です。。。( ;∀;)

 

兄の学校関係の方や私の職場、そしてリダ君繋がりのお友達からも立派なお花が届きました。お花が大好きだった母はきれいな花に囲まれて嬉しかったと思います。

ほんとにありがとうございました。

 

18時からお通夜が始まりました。

親戚までの質素な家族葬を・・・・と思っていたのですが、実際は兄や私の仕事関係の方、ご近所の方、そして母のお世話をして下さっていたデイの方、訪問看護師さん方、ケアマネさん、訪問リハビリの方、ヘルパーさん皆さんが母に会いに来てくれました。

父の事も気遣い励ましてくれました。ありがとうございました。

どなたも「私たちの方が○○子さんの笑顔に癒されてました」とおっしゃって下さり、ほんとにいい方々に恵まれて幸せだった・・・・・もう感謝しかありません。

 

デイの施設長の方が土曜日(亡くなる2日前)に機械浴に入れて無理をさせてしまったのではととても気にされていたので、お風呂が大好きだったので絶対嬉しかったはずですから気にされないでくださいと言っていずれ父も宜しくお願いしますと笑ってお別れをしました。

 

遠方からわざわざ来てくれた親戚、何十年ぶりかに会ういとこもたくさんいて・・・・

昔話で盛り上がりました。この時は母のために一生懸命皆さんに失礼のないように必死で接待をしていたので、泣く暇がなかったです。。。準備していた料理も足りない事もなくよかったです。予想以上にたくさんの方が来て下さったのでお礼の品物と挨拶状を2回追加しました。

 

21時過ぎには落ち着いてきて、やっと母の顔をゆっくり見る事ができました。

お線香の火が消えない様にと思いましたら、そこには蚊取り線香みたいなグルグルしたお線香があり6時間くらい消えないらしく、係りの方が朝方消える頃つけに来るのでゆっくり休んで下さいと言われました。

 

でも、明日で母は火葬されてしまうんだ・・・・と思うと悲しくって・・・・

結局ウトウトしながらもずっと母の傍にくっついていた私でした。

 

母の祭壇です・・・

 

アメンバー限定で母のやすらかな顔を載せたいと思いますので見てやって下さい。。。

不快な気持ちになられる方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。スルーして下さいませ。

母との思い出としてここに残したいと思います。

 

アメンバー申請を最近たくさん頂いてとても有難いのですが、何か一言メッセージを書いてくださいましたら・・・・と思っております。どうぞよろしくお願い致します。

 


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母が亡くなった後からの事を記憶が薄れないうちに残しておきたいと思います。

 

訪問主治医の先生から死亡診断書が夕方5時前にはできているので取りに来てほしいと言われ、兄嫁さんと子どもたちに行ってもらいました。

 

私は事前に予約していた葬儀場へ連絡を入れ、30分後くらいには担当の方が家に来られました。

母のベッドの側にお線香をあげる台を置いてドライアイスを4個母のお腹の辺りに乗せました。とてもお腹が重そうで痛そうで・・・・母の体はまだ温もりが残っているのに・・・・・。

 

それからリビングで通夜・葬儀の具体的な話をしました。担当の方が質問して私たちが答える感じ。

母はこじんまりとした家族葬を望んでいたのですが、来て下さる一般の方をお断りするのも忍びないのでその辺は柔軟に対応して下さるようでした。

通夜・お葬式の時間が決まり料理の数、会葬お礼の品物などを選び、母の遺影写真を選びました。

 

この遺影写真が最大の失敗でした・・・・( ;∀;)

 

お通夜の前に持ってこられたのですが・・・・

背景は母の大好きな黄色のガーベラにしてもらい母の顔にうぐいす色の着物を合成してもらったのですが、顔と着物のバランスが悪くとてもガッチリとして見えたのです。。。

 

「母はこんなに太ってなかったのに・・・・母じゃない・・・・」って思ってしまいました。

 

一度合成した写真を見せてもらってから仕上げて欲しかったです。。。。私も素人ですが趣味で写真加工をするので調整はいくらでもできるのは知ってますから・・・

残念でした。。。ごめんね。お母さん。。。この時は余裕がなく仕方ないのですが、今となっては自分で作ればよかったと後悔してます。。。。

その他はほんとによくして頂いたので、これだけが最大の失敗でした。

 

具体的な打ち合わせを終え翌日13時にお迎えに来て下さる事になりました。

 

その後は兄が事前にまとめてくれていた親戚のリストを見ながら兄と手分けして電話で連絡を・・・・。

父母の兄弟は高齢なので耳が遠く・・・・伝えるのに大変でした(*_*;

 

それが終わると少し落ち着き、皆で交代で食事を摂りながら母の側についてお線香が消えない様にして一晩過ごしました。

 

母が、この家にいる事ができる最後の夜・・・・

家族で過ごせてほんとによかった・・・・

 

母の部屋はクーラーを20℃に設定していたので寒くて毛布をかぶって傍にいました。

 

すると父が夜中に寝ぼけながら・・・・「こんなに寒いとお母さんが風邪をひく、温度を上げろ」って言うんです。。。

 

焼酎を飲んで寝ぼけている父の中では、まだ母の死を受け入れていないんだ・・・と言うか受け入れたくないんだな・・・・としみじみ思いました。

 

母が亡くなって・・・・

あんな頑固だった父が元気がなく、ふさぎ込んでしまって・・・・

母の存在がどんなに大きかったかを感じています。。。

 


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無事に15日に通夜16日に葬儀、火葬を終え昨夜母が実家に帰ってきました。。。

 

母の訃報にたくさんのお悔やみのコメント、メッセージを頂きまして本当にありがとうございました。

 

母が亡くなって3日・・・

まだ涙がでるのかって程、泣きました。。。

 

心にポッカリ穴があいてしまった感覚でいます。。。

やっと苦しみから解放されてよかったと思う安堵の気持ちと深い悲しみが交差して・・・

いまだに看取った最期の時がずっと頭から離れないでいます。。。

 

同じ膠芽腫でも症状や治療法もそれぞれで最期を迎える時も違うと思いますが、私が見た母の最期をここに残しておきたいと思います。。。

 

 

 

 

 

14日(月)の朝、ブログをUPした後8時にヘルパーさんが来られその時は熱が37.9℃。

おしっこは出ていなくて・・・・それでも陰部洗浄をしてお着替えもしてもらいました。

酸素濃度は90、脈が122、血圧が91で呼吸が荒く肩呼吸が続いていました。

ヘルパーさんが30分程で帰ってから手足がチアノーゼにならない様に皆で交代でさすっていました。

母の周りで話をしたり歌をうたったり・・・・母は美空ひばりが大好きだったので耳元で聴かせたりしていたら、少し呼吸が安定してきました。

 

しばらく安定していたので息子たちにお昼ご飯を買いに行ってもらいました。

お昼を済ませて12時30分に今度は訪問看護師さんが来られその時の熱が38.3℃、酸素濃度が89、脈が125、血圧が90でした。

呼吸が何秒か止まってまた息をするというのが出てくるかもしれませんが、その時は慌てないで呼びかけて下さいと言われました。

そして母の様子を見て主治医の先生に状況を伝えると16時に来てもらえる事に・・・・。

 

看護師さんが帰ったのが13時20分頃でした。

朝から状態が変わっていなかったので主治医の先生が来られる16時までの間に用事を済ませようと兄は学校へ私は家に洗濯をしに兄の子ども達は葬儀用の靴下やネクタイを買いに出かけました。

 

その間は兄嫁さんと息子が見てくれていました。

父は時々様子を見にきてはお昼寝。。。

 

私が実家に戻ったのが14時20分過ぎた頃・・・・

 

「お母さん、ただいま」と声をかけ、足を見てみたら両足の指から足首の辺りまでまだらにチアノーゼが出ていました。熱を計ってみると38.8℃に上がっていて手足は冷たいのに体は凄く熱い。

看護師さんが言われた呼吸が何秒か止まってまた息をする状態になりました。

 

「お母さん!」と呼びかけ息を吹き返す・・・・

 

これが3回続きました。

 

その後、肩呼吸だったのが下顎が動く呼吸に変わってきました。これが下顎呼吸なんだとハッキリわかりました。

その時、息子がおばあちゃんの目が少し開いて目が合っている気がすると・・・・

すぐさまリビングにいる父を大声で呼びました。

直感で出かけている兄に連絡をしないといけないと思い電話を取ろうとしたら兄嫁さんが私がすると言ってその場を離れました。

 

兄嫁さんが離れ父が母の傍に来た時、母の両目がはっきりと開きました。

瞳はグレーがかって上を向いていました。。。

 

私は「お母さん!お母さん!お父さんと喧嘩しないで仲良くするから!安心して!」と言いました。

父はお母さんではなく、「○○子!○○子!」と必死で名前を呼んでいました。

うちの息子は「おばあちゃん!おばあちゃん!」と叫んでいました。

 

その時、開いた母の目から涙が出てきました。。。。

 

そして目が再び閉じ、下顎呼吸が5回くらい続いた後、また何秒か止まって息を吹き返す呼吸が1回あり、2回めの時・・・・・・

 

いくら待っても息を吹き返しません。。。。。

それでも息を吹き返す事を信じて呼び続けました・・・

 

でも・・・・どんなに叫んでも、吹き返しませんでした。。。。

 

 

兄嫁さんが離れてから5分も経っていなかったと思います・・・

 

母は父と私と息子に看取られながら最期を迎えました・・・・

 

14時35分でした・・・・

 

私が実家に戻ってから15分くらいの間の出来事でした・・・・・

 

 

 

しばらく呆然として。。。。信じられなくて。。。。放心状態。。。。

 

放心状態の中で、主治医の先生に連絡しなきゃと思い先生の携帯に連絡を入れました。

 

少し離れた場所で往診していらっしゃった様で、先生より先にお昼に来た看護師さんが来られ、「まさか・・・こんなに早く・・・・」と唖然としてました。

 

しばらくして、出かけていた兄が戻り・・・・

 

「なんで出かけてしまったんだろう・・・・」といつも冷静な兄が子供の様に泣きじゃくっていました。

 

兄の子供たちも戻り・・・・「おばあちゃん!」と叫んでいました。。。。。

 

 

 

 

その時、主治医の先生が来られて死亡確認をしました・・・・

 

死亡時刻は先生が確認をされた時刻になるので、息を引き取ったのは14時35分ですが書類上は15時12分。

 

 

主治医の先生が帰られた後、看護師さんと一緒にきれいに体を拭いて着替えをしました。

まだ母の体は温かく背中は熱いくらいで亡くなった事が信じられませんでした・・・

 

 

選んだのは母の手作りスーツ・・・

 

頑張ってきた母の手・・・・・・・

 

一生、忘れません・・・・・

 


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