前々々稿の「日本三大車窓と呑み鉄を楽しむ旅」で、雪の善光寺を参詣しました。特急に乗る前に本屋で「善光寺の謎」(祥伝社黄金文庫)という本を購入して呑み鉄した訳ですが、たいへん興味深い内容でした。


信濃善光寺の御本尊一光三尊阿弥陀如来」像は、一つの光背に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が並ぶ特異な形式をもち、絶対秘仏のため直接拝むことはできません。7年に一度の御開帳時には、身代わりである「前立本尊(まえだちほんぞん)」が公開され、それを皆さんは拝むことになります。

△山門をくぐると見えてくる善光寺本堂

△雪降りの信濃善光寺 本堂


善光寺縁起』によれば、善光寺御本尊は552年仏教伝来のおり朝鮮百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像で、仏教を我が国が受入れるか否かを巡る論争の最中、廃仏派の物部守屋により難波の堀江へ打ち捨てられます。その後642年に信濃国国司の従者として都に上っていた本田善光が、難波の堀江で阿弥陀三尊像を拾い、自宅まで背負って持ち帰り、祀ったのが善光寺の始まりとされ、644年には勅願により伽藍が造営され、本田善光から名を取って「善光寺」と名付けられました。

△善光寺壁画「善光寺縁起」野生司香雪作
 


さて、この本には、善光寺御本尊に関して驚きの内容が書かれていました。ご紹介します。
▶善光寺の謎(祥伝社黄金文庫、平成12年刊)

■善光寺本尊の争奪戦
川中島の戦いの第二次合戦にあたる一五五五年の対戦の際、善光寺の寺務を司っていた上杉方の栗田寿が武田方に寝返り、善光寺は信玄のものとなった。
信玄はすかさず善光寺本尊とともに堂内の諸仏を小県郡禰津村(現東御市)へ移し、さらに信玄の本拠地・甲斐の法城寺に移してしまった。(中略)一五五八年、甲斐善光寺が創建されると、本尊と諸仏の他、仏具、 寺側、職人にいたるまですべて甲斐へ移したという。

続けて、
■本尊を手にした信長に仏罰
◯その後、信玄は合戦で負傷し、全国制覇の夢も虚しく五十三歳で他界する。また一五七五年、武田軍は長篠の戦いで織田信長に敗れ、さらに一五八二年には武田勝頼が合戦にまたも敗れ自害し、武田氏は滅びてしまう。(中略)
◯武田氏を滅ぼした織田信長は、甲斐善光寺に安置してあった本尊を岐阜城下の伊奈波に移してしまう。伊奈波には後に伊奈波善光寺(安乗院)が建てられ、善光寺本尊の分身が祀られている。
◯ところがそのわずか二ヶ月後、信長は本能寺の変で非業の死を遂げてしまった。天下統一に成功しつつあった信長でも善光寺本尊にはかなわなかったといってよい。人々は善光寺本尊の仏罰が下ったためだと噂しあったという。
◯そこで信長の弟・信雄が、尾張の甚目寺に本尊を移したという。甚目寺は善光寺本尊といっしょに難波の堀江に捨てられたという聖観音菩薩像を本尊としており、秘仏ではあるが五〇年に一度御開帳となる。つまり信雄は、善光寺本尊ゆかりの古仏といっしょにすることで、本尊の怒りを鎮めようとしたのだろう。
◯しかし阿弥陀如来を本尊とする浄土宗を保護した徳川家康が、浄土宗寺院に祀るのがよいと、本尊を家康の領地の浜松・鴨江寺にさっさと移したという。(中略)
◯しかし「家忠日記」によれば、ある夜、家康の夢枕に善光寺本尊が立ち「余は善光寺に返る」とお告げがあったという。そこで家康は、本尊を甲斐善光寺渋々戻したといわれる。(中略)
 
さらにさらに、
■秀吉をあの世につれていった本尊
天下人となった豊臣秀吉は、その権力を見せつけるように、京都の阿弥陀ヶ峰の麓に氏寺・方広寺を造営し、そこへ東大寺に匹敵する規模の大仏と大仏殿を建立した。秀吉は一五九三年七月五日、大名に命じて総計六万二〇〇〇人規模の基礎工事を開始している。(中略)しかし、一五九六年七月の大地震によって、完成したばかりの大仏が早くも破壊されてしまうのだ。
◯(前略)小さくても日本最古の仏こそ自らの氏寺にふさわしい。そう考えた秀吉は、翌一五九七年、甲斐から京都へ善光寺本尊を迎えたのである。(中略)
◯ところが翌一五九八年、秀吉はにわかに発病し、床に伏しがちとなる。「雍州府志」などによれば、洛中では善光寺本尊の祟りだという噂が流れたという。
◯そして同年八月、秀吉の夢に善光寺本尊があらわれ「余は信濃へ返る」とお告げがあったといわれる。そこで急遽本尊を信濃善光寺へ戻すこととなり、八月一七日再び厳重な備の中、大行列をなして京都を出発したという。善光寺本尊はじつに四二年ぶりに長野へ戻ることができたのである。しかし、返すのが遅過ぎた。
◯本尊の出発を名残おしく見送った秀吉は、その翌日、静かに息をひきとった。善光寺本尊があの世へつれ去ったのである。
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ということが「善光寺の謎」に書かれており、善光寺本尊の争奪戦が戦国武将の間であったことに驚きました。戦国武将たちは、常に死と隣り合わせであったことから、不死身だけでなく、あの世を保障してくれる阿弥陀如来像にこだわったのであろうと筆者は結論付けています。
ここで一旦整理すると、百済から我が国へ伝わった「善光寺本尊」は、難波の堀江に破棄  ⇒拾われて信濃善光寺へ  ⇒信玄により甲斐善光寺へ  ⇒信長により伊奈波善光寺へ  ⇒信雄により尾張甚目寺へ  ⇒家康により遠州鴨江寺へ  ⇒甲斐善光寺へ戻る  ⇒秀吉により京都方広寺へ  ⇒信濃善光寺へ帰還、という数奇な変遷を辿ったということでした。知らなかったわ。


と長くなりましたが、そこで気になったのが地元なのにお参りしたことのない甚目寺物部守屋が善光寺本尊とともに難波の堀江に捨てたという聖観音菩薩像を本尊とし、一時、善光寺本尊が移された「鳳凰山甚目寺」(愛知県あま市)へ急ぎ参詣してきました。

△名鉄津島線に乗って甚目寺駅へ

△甚目寺駅の駅舎を出て
△古民家カフェが見えてきたら甚目寺観音に到着
△真正面が本堂、右が六角堂
△甚目寺観音 本堂(鳩がいっぱい)
△本堂のご案内
△もうすぐ初観音(3/6)です
△境内の四季桜はチラホラ咲いています

鳳凰山甚目寺の公式サイトでは、次のように紹介されています。
■甚目寺誌略
◯仏教が伝来した宣化3年(538年)よりわずか60年後の推古5年(597年)のこと、伊勢甚目村の漁夫、龍麿という人が、江上庄の入り江(甚目寺の東南約200mあたり)で魚をとっていました。
◯その網に黄金の聖観音像がかかり、歓喜した彼は入り江の北にお堂を建て、像を納めました。これが甚目寺の始まりと言われています。法隆寺や四天王寺に次ぐ我国有数の古刹です。
聖観音像は、釈尊の授記を受けて作られたもので、百済を経て日本へ渡り、敏立14年(585年)に海中に投じられた三尊仏の内の一尊と言われています。他の二尊もそれぞれ拾われ、阿弥陀仏は信州の善光寺に、勢至仏は九州大宰府の安楽寺にあります
◯甚目寺は7世紀中ごろ、天智天皇より宝鏡を下賜され、続いて天武7年(679年)に天武天皇から鳳凰山の額を勅賜しました。その後盛衰があり、康和5年(1103年)には七堂伽藍が再興され隆盛を極めましたが、天治元年(1124年)大地震の被害を受けました。しかし鎌倉初期建仁元年(1201年)に聖観上人が再興をはかり、七堂伽藍も整えられました。
◯16世紀の末には豊臣秀吉公から寺領160石を受け、17世紀始めの名古屋開府と共にその鎮護の任にあたり、徳川義直公からも300石を受領しました。以後も歴代藩主の手厚い保護と、土民の篤い信仰を得て、尾張四観音寺の筆頭として栄えてきました。
△絵葉書 甚目寺 南大門
△絵葉書にある「南大門」は令和の大修復中でしたぁぁ、修復が終わったらまた来ます
△お寺で頂戴した「令和の大修復」カード

△カードの裏側の説明書

△絵葉書の左下に写っていた道標が同じ場所に残ってます。(左)「さ屋」 、(右)「つしま」と刻まれています
 

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