知里幸恵、いまを照らす 8日生誕120年 差別の中、民族意識に目覚めた旭川の地大正期のアイヌ文化伝承者知里幸恵(1903~22年)が8日、生誕120年を迎える。政府がアイヌ民族に同化政策を強いた時代、幸恵は19年の短い人生の多くを旭川で過ごし、晩年にはアイヌ民族の神謡を独自のローマ字で表記し、日本語訳をつけた「アイヌ神謡集」をまとめた。幸恵の生涯を題材とし、旭川市や東川町で撮影された映画は今秋の公開に向けて最後の編集作業に入っている。

 幸恵は1903年(明治36年)、登別市で誕生した。アイヌ民族の物語やアイヌ語に精通した祖母モナシノウクからカムイユカラ(神謡)を聞き、アイヌ語の基礎を身に付けた。
 幸恵が祖母と登別市から旭川に移ったのは6歳の時、伯母金成マツの下に身を寄せた。小学校に入学後、アイヌ民族の児童のためにつくられた新設の上川第五尋常小に移籍。アイヌ語は禁じられ、日本語の読み書きを義務付けられた。
 幸恵はトップクラスの成績を収め、旭川高等女学校を受験するが、不合格になった。「アイヌ民族の入学は好ましくないとの理由で落ちた」とのうわさが流れたという。その後に進学した旭川区立女子職業学校では、アイヌ民族の生徒は幸恵だけで、孤独に苦しむ。もともと心臓の弱い幸恵は、学校も休みがちになっていった。
 そんな中でも、職業学校時代に、言語学者の金田一京助(1882~1971年)と出会ったことが転機となった。金田一は、アイヌ語と日本語に卓越した幸恵の才能を見抜き、カムイユカラを文字に残すべきだと助言。「アイヌ神謡集」が誕生するきっかけとなった。
 幸恵は、神謡集の出版のため上京し、金田一の自宅に滞在。しかし、校正を終えた日の夜、心臓まひで永眠する。19歳だった。神謡集が出版されたのは、その約1年後の23年(大正12年)。今年は神謡集の刊行から100年の節目でもある。
 「其(そ)の昔此(こ)の広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました」の一節から始まる神謡集の「序」では、民族の生活や言葉が失われていく悲しみと、アイヌの物語を残したいという決意を記した。かつて幸恵が住んでいた旭川市北門中の敷地内には、神謡集の一節「銀のしずく降る降るまわりに―」が刻まれた文学碑が立ち、現在まで幸恵の思いを伝えている。
 旭川市内の地名表示板のアイヌ語併記や、登別市の「知里幸恵 銀のしずく記念館」の設立に携わった北大名誉教授小野有五さん(75)は「幸恵にとって、旭川は同化政策に悩み葛藤する中で、一筋の光を見いだした場所。節目を機に、アイヌ民族の文化や権利の回復について考えてほしい」と語る。(渡辺愛梨、山口真理絵)
映像で生き返らせたい 映画「カムイのうた」製作終盤 菅原監督に聞く
 映画「カムイのうた」は、幸恵をモデルにした主人公テルが差別や病に苦しみながらもユカラを残そうと生き抜いた姿を描く。全ての撮影が終了し、映像編集や楽曲づくりなど映画製作は終盤に差し掛かっている。映画は7月上旬に埼玉県で製作スタッフや出演者向けの試写を行い、9月の完成発表などを経て10~11月に公開予定だ。菅原浩志監督に映画製作を通じて感じた幸恵への思いを聞いた。

 ―監督が幸恵のことを知ったのはいつですか。
 「旭岳の山開きの儀式を映像作品にする際、アイヌ文化のことを調べる中で彼女のことを知りました。偏見の強い時代にこんな人がいたのかと驚き、彼女がどんな気持ちで生きていたのか表現し、映像で生き返らせたいと思ったのです」
 ―撮影中に感じたことはありますか。
 「不思議な力に導かれて撮影が進んだように感じます。例えば、荒れた真冬の海岸を撮る準備をする間は晴天続きだったのに、撮影当日に地元でもまれな激しさの吹雪になったんです。おかげで良いシーンが撮れました。彼女が見守っていたのかもしれません」
 ―テルを演じた主演の吉田美月喜さんの演技はいかがでしたか。
 「亡くなった19歳は、まだ少女で多感な時期。恋愛や人を思うこともあったでしょうし、婚約者もいました。しかし、当時はその思いを表立って言うことはできませんでした。吉田さんは手紙や日記には書かれていない、行間にある思いを想像して演じてくれました」
 ―監督は以前、「アイヌ民族であることを誇りと言える映画にしたい」とおっしゃっていました。
 「幸恵さんも差別を受け、職業学校などで肩身の狭い思いをしています。『いなくなりたい』とまで考えていた彼女が『自分はアイヌだ』と日記で言うようになった。心が180度変わり、誇りに思うようになったのです。映画を見た後に彼女の思いを感じ、同じ悩みを抱える人が一歩を踏み出してほしいです」(聞き手・和泉優大)