北海道開拓ーー拓北農兵隊
そもそも北海道開拓団とは何なのか。それは、太平洋戦争の末期に、戦況の悪化に伴い、疎開と食糧の供給とを兼ねて考え組織されたものである。最初は「拓北農兵隊」と命名され、一般公募で参加する会員を募ったのである。終戦直後「北海道開拓団」に名前が変わったようである。これに応えたものには会社員や商店経営者が多かったが、中には画家なども混じっていた。当然のことながら農業の苦しさを本当に知っている者は少なかった。しかし、当時の日本では、これ以外の選択をすると言っても、別のより良い選択肢が残っている訳でもなかった。父の話などから想像するに、当時、同世代の若者たちが戦死してゆくのを見聞きしていて、自分達生き残った者は、どんなに苦労して生き延びて行くことが使命であると言うような義務感・使命感があったのかもしれない。この農兵隊に、祖父一郎が逸早く加わったのは、彼の性格上納得できることである。一見山師に似て、有名人好き、舶来物かぶれ。何時の間にか団長の座に収まっていたのは、人徳の故かその不敵な風貌の故かは分からない。祖父は世田谷区喜多見の自宅で、出発の号令が掛かるのを待っていた。しかし、すぐには命令が出ず、広島と長崎に原子爆弾が投下されて、政府はポツダム宣言を受諾した。辛く長かった日々は終わりを告げた。そして、新たな戦後の苦労の日々が始まったのである。その結果、祖父一郎と祖母しげは無念とは思いながらも、東京にとりあえず留まり後日息子達に合流することにし、私の両親とその兄弟が冒頭に描いたように北海道に出立したのである。世田谷部落と呼ばれた地域があるが、これは拓北農兵隊の人々の部落である。世田谷区住人だった我が両親の入植したのは十勝の芽室町であり、世田谷部落は石狩平野の江(え)別(べつ)である。石狩平野は地図で見ると随分湿地帯が多い。
この拓北農兵隊の人々はその半分が三月二十日の東京大空襲で被害を受けた東京都の出身であった。七月六日にその第一陣が出発し、合わせて三千四百十九戸が北海道に入植。江別町の角山(かくやま)地区にもこのような集団帰農者の入植地であった。主要食料の配給と一戸当たり一町歩の開墾地を貸与すると言う好条件にひかれて、世田谷区から三十六戸が応募したものの、敗戦後の九月になって割り当てられた入植地は泥炭地であり、農業にまったく素人の集団には手も足も出なかった。彼らの入植地はその後世田谷部落とよばれるようになったが、入植直後から脱落者があいつぎ、たちまち半数の十八戸に減ってしまった。
ピスコ〜NHKで見ましたけど江別市に世田谷地区があってバス停があるとは全然知りませんでした。
コンテ〜それも家も農地もあるとゆうウソの宣伝にだまされて、ひどい話かやぶきの家で寝て布団の上に雪が積もってる、よく凍死しなかったものですね。北海道の大自然の開墾泥炭地を土地改良するとは先人たちのそのような開拓があって、いまの北海道があるとゆうこと、そのような教育受けた記憶ありません、もっともっとそのような開拓の歴史を学校教育ですべきだ思います、サインコサインタンジェントなんかなんの意味があるのかなぁ、全然記憶に残ってない。つまらない道徳教育より先にすべきだと思いますね。
キカ〜北海道命名150年さまざまなイベントが行われていますので、これを機に自分が生きてる場所北海道をよくよく考えること、これが重要ですね、北海道はこれでよいのか、どのような北海道になったほうがよいのか。
レヨ〜ふるきをたずねてあたらしきをしる【故きを温ねて新しきを知る】ですね。行き詰って何がなんだか分からなくなったときにふと昔のことを知ったり思い出したりして、それでスッと悩みが消えることがあります。




