その昔、野球の友人の修理工場で手伝っていたとき、一軒隣に中村内科があった。時々飲み過ぎて二日酔いの注射を打ちに行っていた。そこの医療事務をしていたのが今の家内である。その後縁あって家庭用洗剤の訪販を始めるが苦難の連続。そんなとき野球で左膝を骨折した。一人親方は営業もできないし、入院すらできない。英彦山の麓に膏薬で治す病院があると聞いて何度か通った。やっと車が乗れるようになったので、一緒に英彦山に登っていて、スピード違反で捕まったのを想い出す。

その後ケガもあり商売が立ち行かなくなり野菜の行商を始めるが、之もままならず、年を越して昭和51年1月に保険代理店を始める。一件も獲れない。いつやめるか?そんなことばかり考えていた。ベルを押すのが怖くなってくる。毎日恐怖との闘いの中でやっと門司で一件成約できた。2月10日のことである。その日を創立記念日とする。そしてこれを最後の仕事にしようと決心し、30年前の今日結婚に踏み切る。断崖絶壁に追い込んで、前に進むしかない状況にしてしまった。しかしそれにしても、お先真っ暗の我が輩によくぞ決断してくれたものだ。

結婚式はそれこそひそやかに。友人達が機転を利かしてくれ市販のデコレーションケーキを二つ買ってきて、それを重ねてウエディングケーキにしてくれた。愛のこもったケーキカットは生涯忘れないだろう。貧乏生活が続く。車がエンコして家内の貯金から生まれて初めて新車(軽)を買ってもらった。有り難かった。そうこうしているうちに今の事務所兼自宅を借りた。母、兄、弟、姪っ子と姑、小姑に囲まれての生活。しかも家内は年子を抱えて、年中無休・24時間受付の仕事をこなさなければならない。みんなイライラしていた。すぐ喧嘩になる。「出て行けぇ~・・」と怒鳴りあげ、「ええい、頭に来た」と言っては飲み屋に逃げて朝帰り。そんな日々が続く。何度離婚の危機を乗り越えてきたことか?

野球の連盟を作り、拡大し、その事務局を引き受けていたので、試合の結果や連絡事項、雨天の場合は試合の有無などしょっちゅう電話が入る。夜は飲みに出たら朝まで帰ってこない。事故の電話や野球の電話はみんな家内まかせ。小さな子供を抱えて泣きたい日々だったと思う。しっかり恨み言を言われるときがあるが、「うるさーい・・」といってまた喧嘩。しまいにすぐ「出て行けー」が始まる。どうしようもないバカ親父。どれだけ「殺してやりたい!」と思ったことであろうか?? 外面だけで生きてきた、何の思いやりのない男によくぞ30年も付いてきてくれたものだ。この30年間、家内に甘え我が儘放題やってきた。留学生の面倒を見たり、まちづくりのボランティア活動に没頭したり、「宵越しの金は持たない」が男の中の男と勘違いし、稼いだお金は見事なくらい使いまくってきた。

それでも7年前(丁度50才)、ありがたいことに、奇跡的にこの家屋を譲ってもらうことができた。それを機に全面大改装した。この日を境に心機一転、毎朝二つのトイレ磨き、事務所の床磨き、玄関周りの掃除などを一日も欠かさず続けている。こんな事では懺悔に値しないかも知れないが、少しは彼女の負担が減っているのでは?

1月24日、創業30周年記念のチャリティー・コンサートをしたので、大枚をはたいてしまった。今日の結婚30周年記念は、ささやかな食事ではあるが、夫婦で彼の人望に惚れ込み当初から熱心に応援している、新婚ほやほやの(5/18披露宴)きいたかし君夫妻と「ありがとう狂(きょう?)」の信奉者・宮野さんと、嬉しい祝杯を挙げた。30年前の我々、30年に向けてのスタートのきいたかし夫妻。何か因縁じみている。それにしても、こんなキチガイじみた変わりもんによく付いてきてくれました。ありがたい、有り難い、ありがとうございます。