江戸時代においてネジはあまり普及していなかった。

1543年に種子島に鉄砲が伝来したとき、初めてわが国にネジが入ってきたといわれ、ネジの歴史は浅い。

鉄砲は堺および近江で国産化され、ここで日本におけるネジの製作が始まった。

鉄砲にてネジを使う場所は高圧に耐えて、再三取り外しの行われるところであった。

金属容器にネジロの適用を思いついたのは素晴らしいことで、内圧に耐え、何回も開閉するので栓にはネジが相応しい。

この携帯容器の栓が日本のオリジナルであるかどうかは不明である。

京都国立博物館の収蔵品である重要文化財「花鳥蒔絵螺釦角徳利」の本体は木製漆塗り器を作ったのは彫金師であろうが、ネジの製作は複雑であった。

政府がヨーロッパから真っ先に輸入した機械がネジ作りの機械であったことからもわかる。

元京都国立博物館にいた灰野昭郎氏にご教示いただいたが、これは16世紀の製作で南蛮漆器の優品中の優品で、1980年にイギリスで発見されて京都国立博物館が入手したものであるという。

南蛮漆器というのは、長崎に来ていた西洋人の注文に応じて製作されたものである。

ネジ栓は、この時点までには日本にはなく、技法は稚拙であるが西洋人の指導による製作と推察されている。

このネジ栓は時期としては鉄砲の渡来したばかりである。

ネジというのは構造上、当時の日本人にはもっとも理解しにくいところであったと、灰野氏は説明している。

幕末から明治にかけて金属容器にネジを採用する場合は、今日の精巧な技術でもパッキングを使わないと液体を入れると漏れを生ずる。

銀製の携帯容器は江戸時代中期と推定され、作者の記録は残されていないが、この時点で、ネジの使われたのは和時計の一部に見られるぐらいである。

ただし、ネジを使った万力が、すでに日本には到来していたし、また江戸時代の百科事典『和漢三才図会」には「南蛮もじり」というネジのあるキリの一種が紹介されているので、ネジが一般の人の目に触れる機会はあった。