君に似し姿を街に見る時の

こころ躍りを

あはれと思へ

 

再び、「一握の砂」に収載の石川啄木の短歌です(1967年に初版発行された集英社の「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」を底本とする青空文庫から)。

入蔵が中学生の時に「一握の砂」を読んだ時、この歌も読んでいたはずです。つまり、「情報」としては入蔵の脳に取り込まれたはずなのに、入蔵の記憶の中には無いのです。

NHKテレビの「こころの時代」で、養老孟司先生がこういった事象の紹介をなさっていました。ただ、その中では読書は特に話題になっていませんでした。

調べていませんが、読書にもこういった要素があると、入蔵は思います。

ある本を読む時、読み手の興味の有り様、知識、(人生)経験といった物により、「情報」は、その読み手の中で、取捨選択される。あるいはクローズアップされ、いわば増幅される部分と、無視される部分があると言ってもいいのかもしれません。

でも、情報としては入っている。

四十年前の、入蔵にとって、この啄木の歌はほとんど価値がなかった。しかし、このブログを最初の方から読んでくださった方には、今、入蔵がこの歌に惹かれる理由がわかるはずです。

五十六歳の入蔵は、明治43年、24歳の石川啄木の歌にも、現代の山崎まさよしの歌にも心動かされているのです。

入蔵、石川啄木、山崎まさよし、それぞれ事情も、生活経験も、全く違います。「短歌」と「流行歌(古い!)では、表現型も違います。また、後者二人の作品は、全くの想像による創作物かもしれません。

でも、入蔵にとって、それは問題ではない。これらの作品によって、心動かされることが重要なのです。単純に癒やされるというわけでもなく、いわば共感を覚えるというのに近いでしょうか。 入蔵には、この感覚を表現するためにもう少し、時間がいるようです。

読書と人生について、人はどれほど多くを語ってきたでしょうか?

この世に、一冊の本ができた、その最初から、議論されて来たと思います。

いわゆる実用書、教養書と、文芸書の違いを、大衆芸能と、古典芸能の関係に置き換えるのは一種の暴挙でしょう。

でも、入蔵は、素人らしくこう考えてみようと思います。

実用書、教養書と言うのは、基本的に伝えたい事が、箇条書きに出来るほど、最初からはっきりとしていて、「読み手にわかりやすく書く」ということを、基本的な使命としてもっている。

これに対して、文芸書は、伝えたいことは、むしろ、箇条書きにできないような、(おもに人生の)複雑なありようである。だから、もともと箇条書きに出来るような内容ではない。

これを、芸能に当てはめれば、大衆芸能というのは、複雑な内容を持つ事象について、その中のあるエッセンスを取り出して、落語で言えば「落ち」につながるような単純化を行って、わかりやすく表現する。古典芸能は、複雑な内容を、その複雑性を保ったままに表現する。

と言った感じでしょうか?

じゃあ、能の動きは複雑か? 動きは少なく単純では無いか? という意見もあると思います。

これも、入蔵、大胆に、「能の『動き』は、とても単純に見えますが、「その動きの含んでいる内容は、(それ故)むしろ、とても複雑です」と申し上げます。

大衆芸能も、古典芸能も、もともと、複雑性を持った人間の「人生」や「感性」を扱うことに変わりはなく、「単純化を行って表現する」ことと、「複雑性を保ったまま表現する」ということの難易度は、まさに甲乙つけがたいことだと思います。どちらにも、「良さ」があリます。ただ、受けてに、好みはあるでしょう。

良書は、再読、再再読に耐え、読み手の、知識、経験によらず、楽しみを与えてくれ、逆に、読み手の知識、経験の変化とともに新しい喜び(時には苦しみかもしれません)を与えてくれます。

これは、優れた大衆芸能、古典芸能に接したときも同じだということは皆さんも実感していらっしゃることだと思います。

以上の感想は以前に書かせていただいた、「のう、じょぎ、ろう」にお邪魔した時に感じたことでもあります。

能、義太夫、浪曲がお好きな方からは、必ずおしかりを受けると思います。

でもどうでしょう。入蔵のような理解力しかなかったら、これらの芸能を楽しんではいけないのでしょうか? 楽しむ権利がないのでしょうか?

入蔵は、現に、これらの芸能の公演を拝見に行き、とても楽しませていただいております。

入蔵はオペラから、大衆演劇まで、なんでも行きます。まるで、入蔵の読書のように、節操なく。

入蔵はとっても寂しがり屋なので、観に行きたい公演があると、必ず切符を二枚買います。そして、買ってから相手を探します。本当に効率が悪いです。お金も倍かかるし。で、人をお連れするのですが、大概は満足していただけます。

演者の皆さんは、どんなものでも、精一杯のパフォーマンスを披露してくださっているのです。

入蔵のしている「落語」はどうでしょうか? プロは勿論ですが、この入蔵も高座に上がるについては、結構ジタバタしているのは、もう、以前書かせていただいたとおりです。

さて、入蔵、「またやった」という感じで、無理やりまとめてしまいました。

本当にしつこいですけど、入蔵の私見を述べているだけなんですから、真剣に怒ったりしないようにお願い致しますm(_ _)m。

さて、子供たちの学校の休みも終わり、入蔵も明日から、診療を再開しようと思っています。まあ、最初は体調をみながら、ぼちぼちということにはなると思いますが。

で、明日は、「余力があったら書きます」ということで。

ではまた(^^)/