城下町だった頃の出石は・・・
江戸時代初め、出石藩は宮津、篠山と共に三丹きっての藩主として栄え『出石城下三千軒』と歌われた文化商業の中心地でもありました ![]()
城下町には17の町があり、谷山川より内側の材木町、魚屋(うおや)町、八木町、本町、宵田町、田結庄(たいのしょう)町の6町をまとめて本町とも呼び、これに対し残りの新町、宗鏡寺(すきょうじ)町、寺町、出町、鋳物師町、裏町、川原町、博労(ばくろう)町、小御料庄(こごろしょう)町、七軒町、小人町の11町を端町といいました。
現在でも、その町名のほとんどがそのまま使われています ![]()
文化7年(1810)の『出石城下町絵図』には、町ごとに町の長さと町幅(道路幅)が詳細に記入されていて、その様子は現在の状況とほぼ同じなので、城下町の町割りは大変よく保存されてきている事がよく分かります ![]()
明和8年(1771)の記録では町方の人数は、5713人、家数は、1411軒でした。
また、当時の町家の職業構成は、大工が68軒で最も多く、魚屋32軒、桶屋6軒、酒屋23軒、骨柳(こおり)屋20軒、紺(こう)屋18軒、鍛冶屋、鋳物屋共に16軒、絹屋15軒と続きます。
特に、鍋、釜などの鋳物生産については、但馬国の中心地としていました (ノ゚ο゚)ノ
私は幼い頃から出石の町中の町名が『何で魚屋、材木町、鉄砲町なんてヘンテコな名前がついてるんだろう
』と不思議
に思ってたんです。
こんなにもたくさんの職業があった町だとは知らなかった![]()
私の実家は材木町。その昔はどんな職業の家だったんだろう![]()
材木と言うぐらいだから、やっはり大工さんかなぁ(//・_・//)
この『出石城下町絵図』は町立資料館に保存されています。
現在の地図と比べてみると
}面白いかもネ ![]()