「ロックンローラー聖子」をもう一度 | SEIKO SWITCH ~松田聖子をめぐる旅への覚書~

SEIKO SWITCH ~松田聖子をめぐる旅への覚書~

最も知られていながら、実は最も知られていないJapanese popの「奇跡」、松田聖子の小宇宙を、独断と偏見、そして超深読みで探っていきます。

  

10代で手に入れて、もう40年近く経つのに、いまだに時々聴き返すアルバムがいくつかある。そのうちの一枚がシュガーベイブの「SONGS」だ。山下達郎・大貫妙子が在籍したバンドとして、今や伝説的な存在となったこのグループが唯一残したこのアルバムは、1975年にリリースされてから40年近くたっても、いまだ廃盤になるどころか、歴史的名盤として年月を経るごとに評価が上がり、幾度もリミックス盤が再発されるほどの人気を誇っている。実際、今聴いても全く古くない。いかに当時進みすぎたアルバムであったかが、今となってはよく理解できる。

2005年にリリースされたその発売30周年記念盤に、各メンバーのコメントが載せられているのだが、山下達郎のコメントに興味深い一節があった。

 

「…変わらずに30年の時をつないでくれるもの、それはロックンロールへの忠誠心です。シュガーベイブのアルバムがどこかから流れてくるたびに、私は昔の自分から『おまえの中のロックンロールはまだ生きているか』と聞かれているような気になります」

 

これを読んだとき、少し奇妙な感覚を覚えた。なるほど、山下達郎のルーツはベンチャーズから60年代のブリティッシュ・ポップス、そしてビーチボーイズという流れだから、ロックンロールへの忠誠心という言い方はおかしくはない。ただ、自分のイメージとして、山下達郎=ロックンロールという結びつきがピンとこなかったのだ。

おそらくそれは、シュガーベイブの音楽が、ロックンロールより新しい響きとして耳に入っていたからかもしれない。1960年代の終わりにレッド・ツェッペリンが登場したとき、浜田省吾が「ビートルズの音楽が初めて柔らかく聴こえた」とコメントしていたが、シュガーベイブの音楽も、おそらくロックンロール「以後」の音として認識していたのだと思う。

 

話はここでようやく聖子のことになる。

山下達郎に連なる人脈を辿ると、当然、聖子プロジェクトの人々がほとんど登場する。そして、彼らもまたロックンロールへの忠誠」を誓ったであろう人々であり、もちろんその音楽的血脈は聖子の音楽に受け継がれている。

どこに書いてあったのかは忘れたが、ずいぶん前に聖子について書いたものの中に、「もし聖子が90年代にデビューしてたら、大黒摩季みたいな存在になったんじゃ…」というものがあった。

読んだ時、頭の中で「?」が点灯したのだが、反面、言いたいことはわからないでもないと思った。

これを書いた人は、聖子の中に「ロックスピリット」を見たのだと思う(大黒摩季が果たしてロックかという疑問はこの際置いておく)。そして聖子プロジェクトの面々もおそらくそうであったに違いない。

 

数多い聖子の楽曲の中で、一聴して「ロック」「ロックンロール」と呼べるだろうものをリストアップしてみると以下のようになる。

 

「ロックンロール・デイドリーム」

「ロックンロール・グッドバイ」

「ロックンルージュ」

「スコール」

「ジュテーム」

「少しずつ春」

「Bitter Sweet Lollipops」そして「チェリーブラッサム」

カバーでは「恋人がサンタクロース」。

 


ちょっと思いつくもので以上なような曲が挙げられる。

そして、実は上記のものよりもはるかに「ロック」のマインドを内包している曲として、「ガラスの林檎」もここに含めることができるかもしれないし、「North Wind」や「スプーン一杯の朝」も、ビートルズへのオマージュという点から見れば、ロックンロールと呼べなくもない。

 


これらの曲において、聖子はその天性のリズム感を遺憾なく披露している。初期の「ロックンロール・デイドリーム」などでは、まだやや「歌わされてる」感が漂っているが、「ロックンロール・グッドバイ」や「ロックンルージュ」になると、完全にその曲のエッセンスを摑んで、それを何倍にも増幅させるという聖子の真骨頂が聴ける。

ただリズム感がいいだけなら、たぶん他のアイドル歌唱でも聴くことは可能だろう。ではそれらと聖子の根本的な違いは何か。

それは、聖子には他のアイドルには決してない「グルーヴ」があるということに尽きる。

 


グルーヴ(groove)を、最も近い日本語に訳せば「ノリ」ということになるだろうか。Wikiなどでは下記のように定義されている。

 


グルーヴ(groove)とは音楽用語のひとつ。形容詞はグルーヴィー(groovy)。ある種の高揚感を指す言葉であるが、具体的な定義は決まっていない。語源はレコード盤の針溝を指す言葉で、波、うねりの感じからジャズ、レゲエ、ソウルなどブラックミュージックの音楽・演奏を表現する言葉に転じた言葉である。現在は、素晴らしい演奏を表す言葉の1つとして、ポピュラー音楽全般で用いられる。

グルーヴを構成する要素としてはリズムやテンポ、シンコペーション、アーティキュレーションなどが挙げられ、主にリズム体(ベース、ドラムス、パーカッションなど)を対象とした概念である(例:グルーヴィーなドラミング、など)。「ノリ」を表す言葉である。ジャンルによって感じるグルーヴは様々で、グルーヴ感の会得は、演奏者にとって必要不可欠な要素のひとつである。

 


たとえば、グルーヴのあるドラマーと言われる人のドラムを完璧にコピーしたとしても、決して同じグルーヴ感を生み出すことはできない。仮に機械で再現したとしても同じことだろう。その人にはその人固有のリズム感があり、そこから派生してくるのがグルーヴだからだ。

 


では、リズム感のよさとグルーヴはどう結びつくのか。よくニコ動などのコメントに「聖子は天才リズム君だな」というものがあるが、この抜群のリズム感がグルーヴを呼ぶのだ。つまり、リズム感の良さは前提としてあるものと言える。その上であえて(あるいは無意識に)そのリズムを微妙にずらすことで、「ゆれ」「ゆらぎ」とでも言うべきものが発生する。


話がマニアックになって恐縮だが、世界的なドラムの名手にスティーヴ・ガッドと言う人がいる。聖子ファンには、昨年の東京ジャスフェスで共演した「ボブ・ジェームス・バンド」のドラマーと言えばおわかりだろう。

彼のドラムは、このグルーヴ感に満ちている。聖子ブログの大御所・メガネおやじさんもファンである「スティーリー・ダン」というバンドの「AJA」(エイジャ)という名盤の中で、このタイトル曲のドラムを彼が叩いているのだが、初めてこのドラムを聴いたとき、度肝を抜かれた。そこには、ただ上手いだけではない、グルーヴの塊のような音があったからだ。


彼のドラムは、聴いていると、いつも一瞬遅れるように聴こえる。おそらく数十分の一秒単位でのずれがそう聴こえるのだろうが、しかしそれが何とも言えない心地よさを生むのだ。これこそがグルーヴ感なのだと思う。グルーヴのある音楽は何より「豊か」なのだ。

 


翻って、聖子である。

私が数ある聖子動画の中で、このグルーヴ感を顕著に感じるのは、あの「口パク疑惑」(笑)で有名になった「ザ・ベストテン」における「ロックンルージュ」である。グルーヴとは何かを説明するのに、これほど適した映像はまたとない。

振り付けのない部分での微妙な聖子の体の動き、これこそがグルーヴの体現だ。実際自分で再現しようとするとわかるが、このような動きはまずできない。体の中にこのグルーヴ感覚が入っていなければ、練習してもうまくできるというものではないのだ。

あるいは「夏の扉」のイントロでの聖子の動き、これもやってみると非常に難しい。他の多くのアイドルの沢山の振り付けを観ても、ほとんどは単にリズムに合わせて体を動かしているだけに過ぎない。何というか、曲にある「うねり」のようなものが全く出ていないのだ。

私の大好きな「2009/2010カウントダウンパーティー」における「時間の国のアリス」の動画で、冒頭にほんの数秒出てくる、聖子がステージにせりあがってくるシーン、よく見ると、ここでも聖子の体が微妙にグルーヴしているのがわかる。全く恐るべきリズム感。ポップスの神は、よくぞここまで聖子に才能を与えたものだと空恐ろしさすら感じてしまう。

 

1982年の「クリスマスクイーン」における「恋人がサンタクロース」や、1984年の「Seikoland」のステージを観ると、ロックンローラーとしての聖子の資質がよくわかる。

いまや60歳を迎えた山下達郎も、今に至るまでロックンロールへの忠誠を誓い続けてステージに立っている。

50歳を過ぎた聖子に、ロックンローラー聖子の再現を望んでも、決して無理難題ではないと思うのだが。