転換点としての「野ばらのエチュード」 | SEIKO SWITCH ~松田聖子をめぐる旅への覚書~

SEIKO SWITCH ~松田聖子をめぐる旅への覚書~

最も知られていながら、実は最も知られていないJapanese popの「奇跡」、松田聖子の小宇宙を、独断と偏見、そして超深読みで探っていきます。

 

人生には様々な転換点がある。

ひとつの決断によって、その後の人生が左右されるような、そんな瞬間。

自分自身の決断では迷い悩みそして決心し、他人のそれを見ては息をのみ、そして見守る。

人生には、そんな醍醐味と恐ろしさとが混在している。

 


「野ばらのエチュード」は、80年代前半の聖子のシングルとしては語られることの少ない曲である。動画サイトに上がっている動画の数を見ても、この曲だけは大変に少ない。

確かに、全盛期の聖子の曲としては非常に地味な曲で、盛り上がりの少ないミディアムテンポのメロディに、動きの少ない振り付けという、聖子以外の歌手が歌ったら本当に凡庸な歌になったと想像できる曲である。それゆえに、いわゆる「萌え」ポイントも少ない。

私も発売当初は、えらく地味な曲だなあという印象しかなく、それは聖子病にかかる昨年まで同じだった。だが、聖子の再発見を経て後、改めてこの曲を聴き直してみて、その印象は激変した。じわじわと、しかし強力に、こちらの気持ちに喰い込んでくるのだ。これはむしろ、自分がオヤジの年代になってからその良さがわかる典型的な曲と言える。

 

しかもつい最近、大変に強力な感染力を持った「野ばら」の動画がネットに上げられて、完全にハマってしまった。次のシングル「秘密の花園」のリリース直前、つまりステージでの最後期の「野ばら」なのだが、この曲がこれほど破壊力のある楽曲だということを、今回の動画で改めて実感した。要するに聖子のパフォーマンスが凄すぎるのだ。地味で動きの少ない曲を、どうやって情感豊かにリスナーに伝えるか。その究極の答えがこの動画にはある。

 

その「野ばらのエチュード」を、私は常々、不思議なポジションの曲だと思っていた。

聖子の第一期(デビューから結婚まで)のシングルを自分なりに区分すると以下のようになる。

 

     裸足の季節~夏の扉

4曲めの「チェリーブラッサム」から作曲が財津和夫に替わるので、ここからで区切るのもひとつの捉え方だが、「夏の扉」までのシングルは、いわゆる「歌謡曲」のフォーマットにとりあえず収まっていると言える。

もちろん財津のメロディはそれを逸脱しているが、大村雅朗のアレンジがそれを吸収して、歌謡曲のフォーマットに収斂させているという印象がある。つまり、この曲までは、聖子は従来のアイドル歌手と同じポジショニングからまだ飛び出していない。

 

  白いパラソル~小麦色のマーメイド

「白いパラソル」からは、当時のニューミュージックの影響が出てくる。と同時に、聖子の声が変化してくる。世間で言われる「キャンディボイス」への転換である。無論、最大の変化は、ここからの歌詞が全て松本隆のペンに委ねられるところにある。ここから「小麦色のマーメイド」まで、色彩に溢れた松本の世界が展開されていく。

 

③秘密の花園~ガラスの林檎

いわゆる「天国三部作」((C)しおれたきゅうりさん)とも言われる、共通のモチーフを持った3曲。それまでの小道具を多用した恋愛模様とは一変して、恋愛そのものにテーマを絞り込んだ「大人の恋」の様相が色濃く出ている。楽曲のテンションとしては、この時期が最も高く、聖子のパフォーマンス的にもある種の頂点といえる時期だった。

 

     瞳はダイアモンド~ボーイの季節

一言でいえば、聖子の完成期。もうどんな曲を歌っても聖子色になってしまうという、ある意味後期のビートルズと同じような様相に。③のときのようなテンションの高さはなく、テーマにも一貫性はない。

一区切りの時期として捉えるには散漫な印象がある。

 

 

こう書いてきておわかりのように、「野ばらのエチュード」はどこにも属していない。そう、あえて言えばこの曲は、②と③とをつなぐブリッジのようなポジションの曲なのだ。

 


トゥルリラー トゥルリラー 風に吹かれて

知らない町を 旅してみたい
トゥルリラー トゥルリラー ひとり静かに
愛をみつめて 20才のエチュード


あなたしか見えないの
青空の浮雲にも
もう私 あゝ迷わない
風が野ばらふるわせても

まだ青い葡萄の実
くちびるを寄せる少女
愛されて あゝおびえてた

昨日までの私みたい

トゥルリラー トゥルリラー 流れる時に
違う私を 映したいのよ
トゥルリラー トゥルリラー つまずきながら
愛することを 覚えてゆくのね

よろこびも哀しみも
20
才なりに知ったけれど
この私 あゝ連れ去って
生きる人はあなただけ

 

トゥルリラー トゥルリラー 風に吹かれて
知らない町を 旅してみたい
トゥルリラー トゥルリラー ひとり静かに
愛をみつめて 20才のエチュード



以前、このブログで、「白いパラソル」以降の歌詞に出てくる「名詞」=「具体物」の分析をしたことがあったが、それでもわかったように、この「野ばらのエチュード」から、その内容が大きく変化しているのがわかる。この曲からは歌詞に小道具がほとんど登場しなくなり、それらを使ったドラマ仕立ての恋物語がよりリアルなものへと変貌し始めるのだ。

 

特にこの曲では、他のどのシングルにもない視点が登場する。それは「愛されておびえていた昨日までの私」を見つめるもうひとつの視点だ。

まるでアルバム「シルエット」のジャケットのように、恋する少女を見つめる大人になりかけた女性、この女性こそがこの曲の主人公であり、ある意味で等身大の松田聖子のイメージの投影でもあったのだろう。

 

思えば、可憐で純粋な少女を歌った「赤いスイートピー」のあと、「渚のバルコニー」と「小麦色のマーメイド」の2曲は、ある意味「背伸びした女の子」の歌だった。聖子の素晴らしいパフォーマンスが堪能できるこの2曲は、しかしどこかバーチャルな恋愛模様に見えた。「渚のバルコニーに ひとりで来てね」と誘う女の子、「嫌い あなたが大好きなの 嘘よ ほんとよ」と男を幻惑する女の子。

これを全く違和感なく表現してみせた聖子のパフォーマンスが際立っているため、つい忘れがちになるが、歌詞そのものは、リアリティというよりはデコレーションされた擬似恋愛のイメージが強い。つまり「女の子の憧れる恋愛模様の具現化」だったのだ。

 

それに比べて、「野ばらのエチュード」はより等身大のイメージであり、「喜びも悲しみも20歳なりに知った」「愛されておびえてた昨日までの私」からの決別の歌である。つまり松本は、ここからはリアリティのある歌を書いていくぞ、と宣言しているのではないかと、私には感じられる。


今回この記事を書くために、「野ばら」の花言葉を調べた私は、ちょっとびっくりした。「野ばら」の花言葉は「痛みから立ち上がる」というものなのだ。そして「エチュード」は、音楽や美術をかじっている人ならおわかりの如く「練習曲」「習作」の意味である。

 

「痛みから立ち上がるための練習曲」。

 

屁理屈を承知の上で書けば、だからこそこの曲には、今風に言う「癒し」が溢れているのだろうか。

そして、前述した強力な感染力の「野ばら」をテレビで披露したおそらく数日後、新曲「秘密の花園」を携えて登場した聖子のあまりの変貌に、リアルタイムのリスナーは驚愕することになるのである。