お釈迦様が涅槃にお入りになる(お亡くなりになられる)直前に説いた教えと言われています。
今の世界情勢に全く合致していることです。
〈意 訳〉
このように聞いております。ある時、世尊はクシナガラにいらっしゃって、ちょうど涅槃にお入りになるという時でありました。もろもろの比丘たちと、もろもろの菩薩と、書きつくせないほどの大衆が、世尊のもとにお参りします。世尊は静寂として、ただ黙って、お教えをお説きにならず、光明も現われません。賢者阿難は、世尊に礼拝して、おたずね申し上げました。「世尊は、いつでも説法をお聞かせ下さり、いつもは威光が現われていらっしゃいます。今、こうして、大衆が集まりましたのに、光も現れません。これには何か深いわけがあると存じますが、どうぞ、その意をお聞かせ下さい」このように三度申し上げました。世尊は、阿難に次のようにおっしゃいました。「私が涅槃に入ったのちのことであるが、仏法が滅しようとする時、五逆の罪を犯す者が多くなり、魔道が盛んになるであろう。魔類が僧侶のかっこうをして教団や仏教徒の中に入りこみ、仏道を内から乱し、破壊する。魔僧は、俗人の衣服を着て、袈裟も(定められた以外の)五色の服をよろこんで着るようになる。魔僧は酒を飲み、肉を(見・聞・疑のない物か否かにかかわりなく)むさぼり食らい、生き物を殺して、飽くことなく味を追求して食べる。およそ慈悲心が、全くなくなり、仏の弟子たる比丘たち同士、お互いに憎んだり、ねたんだりする。(そんな末法の世の中でも)まともな菩薩・辟支・羅漢が出現して、精進・修行して徳を修める。世の中の人びとはみな敬い、あがめたてる。(すべての人を)平等に教化し、貧しい人をあわれみ、老人をねぎらい、たよるべき人がない者を救済し、災難に会った人を養い育てる。まともな菩薩らは、つねに経・仏像をもって、人びとに奉仕することの大切さを教え、仏さまを礼拝することを教えてあげる。菩薩はもろもろの功徳をなし、その志と性質は、(自然と)思うことが(すべて)法にかなっており、人に危害をくわえない。自分の身を犠牲にしても人の物を救う。まず、我慢して人にやさしい。もし、真面目に仏の教えを実行している人がいるとすれば、魔ものの身代わりの比丘たちが、みなこれをねたみ、誹謗し、悪口を言う。世間に、欠点などをほじり出して吹聴する。お寺から追い出し、寺の中に住まわせない。そして、そういう菩薩の教を実践する比丘が目の前からいなくなれば、自分達(魔の比丘)は、ともに正しい道などを修めないから、寺や祖廟が荒廃しても、修理しようとせず、荒れ放題にしておく。ただ、自分の財物や金銭をむさぼりたくわえることばかり努め、福徳など全然行わない。奴隷の売買をする。魔の比丘は、田を耕して種をまき、山林に火をつけ、衆生を傷つけ、慈悲の心など全くない。奴が比丘となり、婢が比丘尼となって、(そういう人たちだから)道徳などない。(そういう人たちは)淫乱なことをして、男とか女とかに区別なく悪いことをする。仏道の方が淡薄になるのは、みなこの輩の仕業である。(徴用や税金の取りたての)役人につかまることを避けるために、僧侶となることを求め、沙門のかっこうをしても戒律を修めない。(毎月二回ある)菩薩の日には、戒を読誦することが定まっているのに、いやいや読んだり、怠けて、真面目に聴こうともせず、全部を説こうともしない。お経を習わず、たとえ読める人がいたとしてもその人は字句の意味も判らない。そうした読み方をしているくせに、無理にこじつけをして、字句の意味を知っている人に聞いてみようともしない。よく判らないくせに有名になりたがり、おごり高ぶって、しきりに他人から褒められようとし、本当は智慧や徳もないのに(容姿だけは)どうどうと歩いてみせ、人から供養されることばかり望む。こういう魔の比丘が命尽きた後、その魂は、無間地獄の五逆罪の仲間に入る。餓鬼、畜生界など経験して、千万年以上、数えきれぬほど永い間生まれ変わる。罪が終わると、仏法僧の三宝もない国に生まれる。法が滅しようとする時女人は精進して、常に徳を積み、男子は怠けていて、仏の教えをちっとも用いず、(男子の目には)沙門は、まさに糞土を見るようなものと考えて、ちっとも信心がない。、法が滅ぶ時、天の神さまがみな涙をこぼし、泣き悲しむ。五穀は実をつけなくなり、疫病が流行し、死亡する者が多く、人びとは苦しむ。税金は苦しくなって、道理にかなわない税のかけかたをする。人びとは、混乱でも起こして一つ機に乗じて楽をしてやろうとする。悪人が、海の砂の数より多くなり、善人は、一人か二人になる。世界が最期になる寸前には、日月が短く、人の命もだんだんと短くなり、四十歳になると、頭がまっ白になってしまう。男子は淫乱にして、精も尽き若死にする。あるいは長寿としても、六十歳ぐらい、男子は短く、女子は七、八、九十歳、あるいは百歳となる。大水がにわかに起こり、尽きることはない。世人は信じないので、常にこの世はある、と、考えている。大水のために、富める者も、いやしい者も問わず、水におぼれて、水中に漂い、魚のエサとなる。時に菩薩、辟支、羅漢は、多くの僧のかっこうをしている悪魔たちに追い立てられ、三乗の山に入って福徳の地へ行く。菩薩、辟支、羅漢らはみな、自分一人しっかりと法を守り、戒を守り、そうすることを楽しみとする。その人(たち)は寿命が延長して、諸天が護って下さる。すると月光菩薩が世に出て、五十二年間仏法を興す。首楞厳経や般舟三昧がまず滅し去る。十二部経もまた、だんだん滅尽して、その文字を見ることもできない。沙門の袈裟は白と変じる。仏法が滅する時は、たとえば油燈の灯が、油のなくなる寸前、光がさらに盛んになるのと同様になる。これ以上は、説いて聞かせることができない。その後、数千万年たってから、弥勒仏が世間に下ってきて修行して仏となられるはずである。賢者阿難は世尊に礼拝して、「このお経は何と名前をつけ、どうやって奉仕したらよいか」とおたずねしました。世尊は「阿難よ、この経の名は法滅尽となす。誰にでも説いてよろしい。そうすれば、功徳ははかりしれない」とおっしゃいました。四部の弟子は経を聞いて悲しみ沈んだ。だから今のうち無上聖真道を発心した。みなことごとく世尊を礼拝してからそのもとを去った。