久しぶりのブログに向かっています。この数ヶ月も相も変わらず怒濤の日々でした。
整理の記録として、真剣勝負で向き合ってみます。
この数ヶ月、本当に数々の人と出会い、ココロを通わせてお話をさせて頂き、そして百冊を超える本と出会いました。
足下がふらついているという自己認識の中で、少しでも「自分」の地場を固め、「自分」を捉えようとする模索の日々でした。
・ビジネスという世界で猪突猛進するように上昇志向で形成してきたスキルや知識
・中学生からずっと志してきた「人間教育」という分野
・永遠に興味を惹き続ける「リーダーシップ」という言葉
これらは全てクロスしているはずなのに、全体感を以て捉えられていないもどかしさ。
何か世俗的なものに引っ張られて本質を見失っているような寂しさ。
人生はたった30000日。このブログを書く1時間の間に、私の寿命は1時間縮んでいるという事実。
それなのに、「生」は永遠に続くと考え、なんとなくゲーム感覚で競争して生きてきたことへの後悔。
それでも、向かうべき方向性がなんなのかわからない悔しさ、もどかしさ。
周りの視線を気にして生きてきた自分に気づき、自分に向き合うことを教えてくれた先生との出会い。
これらの迷い・惑いと、それを優しく悟らせるように教えてくれた数々の失敗。
「そろそろ決着をつけなさい」と呼ぶ内側の声。
その内側の声から自然と導かれていったエリアは「勉学」であり、特に「歴史」でした。
日本という国がどうあり、なぜ自分が今存在し、今の日本という国の現状がココにあり、ではこれからどうすればよいのか。
考えを巡らせているうちにご縁は歴史へと自然に向かいました。
大學や論語にある数々の教え、人生を尽くして書かれた歴史の書物、人と生き様を残した吉田松陰・西郷隆盛、戦時中の英雄・先輩方たち、そのコトバ。
多くの方の命懸けの努力により生かされているという事実。
そして、同じ方向性へ真剣に生きながら向かう同志。学び合う仲間。
これらの多くの出会いが自然と生まれ、どんどん繋がっていきました。
強かな植民地時代から連綿と続く、弱肉強食の現実世界
その中でも理想を掲げてよりよい世の中を目指して生きて下さった先輩方
戦後GHQのWarGiltInformationProgramから来る日本の教育の廃退と洗脳
根本にある日本という国の歴史の偉大さ
「全ての一人一人の行動の積み重ねの中で自分は存在する」ことを染み入るように感じました。
芯にあるコンセプトは
「ヒトは生きているのではなく、生かされていること」
「ヒトは何か役に立つ為に生まれていること」
同時に、世の中の流れに関して、僕はこのように捉えるようになりました。
・「競争の時代」から「共生の時代」へのシフト
・「単一価値観の時代」から「多様性」へのシフト
・「自己」から「利他」へのシフト
そして、こんな自分という頼りどころを失ったような生きにくい時代にこそ、
「自分なりの価値観」と「他人の価値観を受け入れる柔軟性」を圧倒的に双方を創り出す必要があること。
そんな時代の流れの中で、
日本の教育は、この時代を生き抜く力という意味において、骨抜きにされていることを感じるようになりました。
限定されているかもしれない僕の理解範囲ではありますが、日本のナガレは簡略するとこのように僕の頭では整理されるようになりました。
・世界一古い歴史を持ち、侵略を受けず文化を引き継いできた国としての日本
・神道・神話という宗教
・島国として発展した中で培われた倫理・道徳・忠誠心
・外敵による弱肉強食という現実への対面とその対応としての近代戦争
・大東亜という理想主義と、現実的なスパイなどによる情報戦略における敗北の経験(=損得主義への敗北)
・敗戦による日本文化・価値観の・宗教の一方的な破壊と西欧主義の流入
・「価値観(=信仰)」を持つことへの恐怖の植え付けと、その逃場としての盲目的な経済一辺倒主義、それに伴う偏差値教育と競争の社会
=根本的なアイデンティティ・自己根拠のないことによる自信喪失と、急速な経済発展による形骸的な自信の獲得による自己バランスの破壊
そしていま、
経済一辺倒主義の限界を迎えた今、どうすればいいのかわからない彷徨いフェーズに至ったというのが僕の認識です。
こんな乱世の中で、改めて「教育」の必要性を感じることになりました。
21世紀を地球と一体化しながら生き抜く人間に必要な力にはこんな力が必要なのではないかと思うようになりました。
・ 「こうあるべきだ」という個々の思想・価値観および「徹底的な自己理解」
・ それらが生み出す「目的意識」と「目的」をベースにした圧倒的な行動力・目的達成力
・ 「徹底的な自己理解」からくる「多様性への柔軟性」と異から新たな価値を生み出す「創造力」
・ 多様性を受け入れるベースとしての「周りへの愛情・感謝・関心・思いやり」、自分は生かされているということ・歴史連続性への理解
まだ纏まりきっていませんが、こんなことなのではないかと。
日本人には圧倒的に足りていない部分があることも認識しなければいけないし、これらを圧倒的に育んでいく必要があります。
そんなことに想いを至らせると同時に、僕自身はというと、
2013年3月で創業した会社を辞職し、たった数ヶ月の間に多くの紆余曲折を経て、今現在は一旦2つのことに集中をすることになりました。
1点は、「レンタルプラットフォーム事業」
2013年7月18日に自分で会社を設立することになり、レンタル事業を始めました。
ベビー用品をはじめとした数々のモノに関して、「買う必要がそれほどないが、場所をとってしまう、処理に困る。」
そういったものをウェブ上でレンタルをする、それらを全てプラットフォーム化していく事業です。
ここでテーマになってくるのは「競争から共生の時代へ」ということ。
後述の教育にも関わりますが、労働から知識の時代に入った戦後、資本主義が跋扈する中で富の競争、知の競争の中で、時代は流れていきました。
それらのマインドを振り返ることなく20世紀は過ぎ、21世紀を迎え、ドラえもんで描いていたような新未来は達成に近づいているものの、自然を
支配し、他社を圧殺するような経済の競争は、地球を破壊し、自らの運命を破壊しようとしています。
モノを所有する時代はもう終わりに近づいています。共有するものは共有し、相手を思いやって共有しながら消費する。
大量生産・大量消費などというのは、今の現状から見ればもう時代遅れなわけです。
モノの共有の領域から、ココロをあったかくしていきたいわけです。
もう1点は、「教育」
自分への刷り込みのせいかもしれませんが、僕は「教育」で一事を成すのだとなぜか信じています。
「いろいろと見える」方にも何人もご縁でお逢いしましたが、私は皆に同じことを言われます。それは、あなたは時代を創るために・弱いものを助けるために生を受けた。そして、実際に新たな時代を切り開くんだとです 。ただ、そのためには、ジェットコースターのような人生で多く失敗や苦労はヒトよりも多くする。ものすごく辛い人生だ。だからこそ、そこから学び成長しなさいと。
僕は見えませんからわかりませんが、そういうことであれば信じてみます。
その方が人生面白いし!
振り返ってみれば、教育に心惹かれ、志をもっていたにも関わらず、主に偏差値で大学を選ぶことになり、
それでも教育に心惹かれていたにも関わらず、「すごいね」といわれる就職先を選ぶことになり。
「すごいね」と言われたいが為に事業を興して、とにかく「すごい」と言われたいがために、
見ないふりをしてきた自分のココロの声に、真剣に耳を傾ける時期がきました。
教育関連のNPOや政治に携わる皆様にサポートを頂きながら教育というドメインに接するたびに、
そこから感じる愉しさと物足りなさ。
中学生に向けて先日、「生き方」という授業を僭越ながらさせて頂きましたが、生徒から、
「しっかり人生を考えて、ヒトの役に立つ為に生きたいと思った。」
「自分の子供には感謝をして、大切に育てていきたい。」
「残された人生を本気で生きたいと思った。」
「苦しいことがあっても、それは自分の為であると思って乗り越えたい。」
と、目頭が熱くなるような感想を頂き、感激し、やはり難しいけれども、自分が感じること、いいと思うことは
伝えていかなければならないと思いました。
そして、今現在は、幼稚園・小学校の教員免許の取得に向けて動き始めることにしました。
大学に願書を提出し、入学許可が数ヶ月以内に降ります。
これらの今の動きは、数年後には全然別のことをやっているかもしれませんが、自然にクロスされていきます。
そして更に進化していくでしょう。
とにかく動き回ることから、自然と運命が僕を導いてくれる。
それだけ運が強いと信じ込んでいるわけなので、運命に裏切られても自分を信じ続けていくのみです。
10年後どうなりたいか?という問いは、僕にはやっぱり似合わない。
そういう考えで自分をマインドコントロールするのはたやすいかもしれないし、実際、思考は現実化すると思う。
でも、それでも、今までを振り返れば、今を動き回り、今を悩み抜くことでしか、本質的な物事は解決していかなかったと思います。
だから、僕はこのスタイルを貫きたい。
泥臭くても、不器用でも、失敗だらけでも、ジェットコースターのように浮き沈みがあってしんどくても、
真直ぐに今を真剣に、1秒、1分、1時間、1日を生きる。
それらを積み重ねて、結果として30000日間を積み重ねる。
そして、死ぬ。
これが僕の人生。ピリオド。
GAMEOVERではない、人生の終焉に向けて。
1日1秒を本気で生きる。
僕にはそれしかできませんから、そうやって生きます。