の続きです。

時は流れて2023年。東日本大震災から12年後の今。

私はもう「日本を変えたい、良くしたい」とは全く考えなくなっている。

新書やビジネス書も読まなくなったし新聞も購読していない。
Twitterで政治のツイートをチェックすることもほとんどなくなった。

デモにも行かなくなった。
(選挙には行ってる)

こうなった原因は色々あるので箇条書きにする。

・生活環境の変化

・経済的な理由で新聞を購読しなくなった

・選挙を棄権する有権者の多さに呆れた。

(国政選挙の投票率は18歳選挙権が解禁されても50%前後。つまり有権者の2人に1人が投票しない。

大手新聞もテレビも安倍政権批判の報道を繰り返しているのに安倍政権が勝ち続け国民の支持率も高いまま。

これが投票率80%や90%以上なら国民の大多数が安倍政権を支持したと思うけど、投票率50%で『圧勝』したからといって国民に支持されたわけではない。

私は安倍氏や支持者をdisりたい訳では無い。そうじゃなくて政治に関心を持たず選挙にすら行こうとしない有権者の多さに呆れている。

地方政治だって、『保育園落ちた日本死ね』が話題になった後も市区町村議会選挙の投票率は30%台が多い。

ママや妊婦以外は保育園問題、つまるところ少子化問題には無関心なのだろう。

いや、ママや妊婦であっても選挙行かない人も多いんだろうな)

・新聞や本を読んで政治や社会問題に知見を深めるよりも、芸能界やアニメやドラマの情報を仕入れて話題の種にした方が世間でウケて付き合いも上手くいくものだから。

中高生も大人同士もこの辺は変わりません。

大人同士の場合『本人や親族が○○党支持者』みたいな利害関係が直接絡んでくるから話しにくいという事情もある。

でも高校生や大学生だって仲間同士で政治の話が出るとしらけるらしいですね。

私の頃はそもそも友達同士で政治の話が出ることがなかったので分からないですが。

小中学生の頃は大学生や大人になったら政治に関わらず真面目で深い話ができる友達とか知り合いができると漠然と思ってたけど、現実はそんなことなかった。

クラスの子と話を合わせるために流行ってるテレビとか、不倫スキャンダルに関心があるフリをして笑顔作って話を合わせるみたいな日々は変わらない。

政治に関わらず、本当に好きなものや関心がある事を話し合える親友を得るのはあきらめました)

以上も原因のひとつだが、最大の原因は「Twitterにいる右翼にも左翼にも論客にも失望したから」だと思う。

(以下もあくまで私の主観です)

まず右翼だけど、真面目に考えて意見する人(主に実名)を揚げ足取って非難・揶揄したり、誹謗中傷する人(主に匿名)が多い。

特に、政権に抗議したり社会のあり方に異を唱えたり、おかしいと思うことをおかしいと言った一般人への揶揄や誹謗中傷が本当にひどい。

先述のSEALDsもそういう被害に遭っていた。

「保育園落ちた日本死ね」を書いた母親(保育園に落ちた人)も「日本に死ねと言うとは何事か」と叩かれていた。

本来、保育園が必要な人が保育園に子どもを預けられない事態の方がおかしいはずだし、あの人も「日本死ね」と書いてしまうほど追い詰められていたのだと思う。

それを言葉尻を捉えて叩くなんて最低だと思った。
(とはいえ「日本死ね」という表現が不快だと思う人達の気持ちも分かります)

SEALDsにせよ保育園に落ちた母親にせよ、権力を持ってない、叩きやすい人達を狙って叩いてるのがよく分かった。

名前は出さないけど、男性よりも女性で声を上げる人達が狙われやすいと思った。

男性でも障害者や在日外国人や未成年は狙われるだろう。

奴らが消費税増税に怒って安倍政権を叩いてるのは見たことがない。

一方、左翼は仲間の不祥事に目をつぶる人達が多い。

2016年の都知事選挙のとき、左派野党が推薦した鳥越俊太郎候補にセクハラのスキャンダルが出た。

報道によれば、被害者は当時の教え子の女子大生(鳥越俊太郎は当時大学教員をしていた)。

教員と学生の力関係を利用したセクハラ、相手の同意を得ない性的接触だったので知った当時から本当に気分が悪くなった。

でも、野党所属者はもちろん支持者も事件に異を唱えない。

(当時の報道も「淫行」と表現していたが、それより「セクハラ」や「性暴力」とかにしたほうがよくなかったか?)

意味が分からなかった。

左翼なら女性の人権や性被害には人一倍敏感なはずだが、いざ仲間にそういう疑惑が出ても見て見ぬふりするのがよく分かった。

私が「デモのオフ会があったとしても行かなくて本当に良かった」と思っているのはこれが理由だ。

決してそういう左翼をかばうつもりはないが、当時はまだMeToo運動もなく、性暴力関係のテレビ報道も今より少なかった。

あのとき鳥越俊太郎をかばった左翼がMeToo運動のハッシュタグつけてツイートしていたり

某女性ジャーナリストが安倍氏寄りの某男性政治記者から性被害を受けた事件に憤っていたかと思うと

(その時には馬鹿らしくなっててTwitterの政治垢を見るのをやめていたので実態は知らない)

本当に呆れるし失望する。

私は右翼でも左翼でもない。

個別の政策や思想への賛否はある。

だけど、例えば「防衛費増額反対」と言っただけで左翼に分類されたくはない。

例えば「アベノミクス賛成」と言っただけで右翼に分類されたくもない。

2011年はまだあまりTwitterのユーザーもいなかったが、Twitterが普及したここ10年ほどで、誰かの特定のツイート(短い発言)を見たり聞いただけで「あいつは右だ、左だ」と瞬間で分類するようになってしまったと思う。

そこは私も気をつけないといけないけど

自分の意見を言っただけで右だの左だのと分類されるなら、もう政治や社会問題の議論なんか誰ともしたくない。

こんな状況では日本を良くするような建設的な議論なんてできない。

日本人特有かもしれないが、右翼か左翼か、フェミニストかアンチフェミか、などの立場の違いですぐに敵か味方か分類されるようになってしまい、本当に窮屈だ。

大人は子ども達に「ちゃんと自分の意見を言えるようになれ」とよく言う。

だけど大人の私は、上の理由で自分の意見を実名出す場では言いたくない。

子どもの世界で言えば、例えば「鬼滅の刃は嫌い」って言ったら鬼滅好きの同級生達から敵認定されるみたいなものだ。

(もっとマイルドな言い方にしたとしても結果は同じだと思う)

こういう状況で自分の意見を言えるようになるメリットってあるのだろうか?

結局、求められてるのはその場で最も力が強い人が気に入るようなことを読み取ってそういう意見を言う能力、つまり忖度力じゃないか。

だったら素直に「忖度できる人になれ」って言えばいいのに。


結局のところ、私が政治や社会問題に積極的に関心を持たなくなったのは「周りの人や出会いや環境に恵まれなかったから」ってのが大きい。

もちろん全てを他人や環境のせいにするつもりはない。

話は変わるけど「親ガチャ」という言葉が流行る前は、人々(特に若者)が自分の恵まれない経済事情や家庭環境、生育歴などを少しでも嘆くと「他人や環境のせいにするな」とすぐに叩かれていたと記憶している。

今では50歳前後になった就職氷河期世代も、一昔前は非正規労働の仕事しかなくて貧しく結婚なんて考えられない…なんて話をしたら「景気や社会のせいにするな」と主に上の世代と同世代の正社員(いわゆる勝ち組)から叩かれていた。

でも今ではそういう傾向は一昔前よりは薄くなったと思う。

コロナ禍もあってなのか、努力し続けた人達も貧困になるときはなると思い知った人が多いからか?

誰もが生まれる家庭を選べないように、大人だろうと自分がどういう界隈で生きていけるか自由に選べない人もいる。

2011年の私がそうだった。


これ書いてて2010年代を思い出して「青春だな〜。若いな〜」って思ってしまった。

「青春」て言うほど若くはなかったとは思うが。

当時の私が今の私の無気力ぶりやネガティブぶりを見たらがっかりするだろう。

でも、今の私は当時の私よりずっと幸せだ。

決して「政治への関心を低下させれば幸せになれる」とは思ってないけど。