おはようございます。

発達障害をみんなで考える会『ここから』のひなたです。

またもや全国ニュース登場の鶴岡です。
雨はまだ降り続いております。

しかしながら、先日ほどではないみたいです。

さて、『ここから』も7月に新年度を迎え、新たな事務局となり6年目スタートしました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

今日は夫の誕生日。
夜、お祝いする予定です。

夫は生まれながらにして耳がきこえません。

49年前、今でこそ、生まれてすぐに聴力があるかどうかわかりますが、当時は分からなくて、お義母さんはなぜこの子が喋ることができないのかと本当に悩んだそうです。最初は自閉症と間違われたとか。

その後、重度難聴であることがわかり、聾学校で『口話法』を学んで、小学校からインテグレート(聾学校ではなく健聴者の通う学校へ入学)し、今に至ります。

『口話法』
『口話主義』

当時は彼ら耳のきこえない人たちの言語である『手話』は聾学校では言語として認められず、彼らは健聴者により近づくことが目標とされ、きこえないのに口話を叩き込まれました。

夫は冗談まじりに『血と汗と涙と鼻水を垂らしながら頑張った』と言いますが、ほんとに大変なことだったろうと思います。きこえないのにどうやって言語を取得したんだろう?

それは『無理をして努力する、頑張る』ということに限ると思うのです。

何のために?

生きていくために。

耳がきこえないと、言葉が喋れないと生きていくことができない世の中だから『それに合わせさせられた』のです。


口話ができる、ということは我々健聴者にとってはとてもありがたいことですが、時々、ふと、喋れるということは夫にとって本当に幸せなのか、と思うことがあります。彼にとって耳を使う必要なく目で理解できる手話の方がずっと理にかなっているからです。

耳がきこえないということは彼にとってアイデンティティとなっています。
使命感だとかそんなものではなく、ただ、ありのままの自分というだけです。
彼はきこえる世界を知りません。

雨が窓に当たる音
爽やかな風の音
わたしの声
人が生きる時に立てる物音
素晴らしい音楽

音というものがわかりません。
正確に言えば全くのろうではないので
意味をほとんど持たない物音、としてはきこえているのですが、はっきりとなんの音か、どこからきこえるのか、なんと言っているのか、まではわかりません。

聴力としては、電車の高架下の音がきこえるくらいだそうです。

普段は補聴器をしているのでもう少しきこえますが補聴器はあくまで補助なので、人間の優秀な耳の機能(きこえるだけでなく音を選んだり、レーダー的な役割をしたり)を網羅しているわけではありません。

彼はわたしの言っていることを判断する時、唇を読んでいます。
わたしは拙い手話を交えて話ししてますが、それでも話がすれ違い誤解を生む喧嘩は日常茶飯事です。
イントネーションがわからないので普通に喋っていても怒っていると捉えられたり。

そんな風に生活していると、彼は口話法を学んで『健聴者に近づく』ということが彼にとって本当にいいことなのか、と考えてしまいます。

だってきこえてないし。

日本語のわからない外国人に日本語で話したって無駄なのを知っているのに、なぜ日本語がきこえない人にきこえることを望むのか。

なぜ、一方的に耳のきこえない側が健聴者に合わせて生活しなければならないのか、わたしには不思議でしょうがない。

世の中にはいろんな人がいます。

耳がきこえない人、きこえる人
目が見えない人、見える人
歩けない人、歩ける人

今世の中は後者に合わせた作りになっていて
前者はとても生きづらい思いをしています。わたしたちだって階段がなければ二階に上がることもできないのに、車椅子に乗らないと移動できない人とわたしたちを『違う』と認識して我々に合わせろ!と言っているのです。

発達障害者も同じく。

いろんな学びや訓練を経て、なるべく、定型発達の人たちに近付いて生活することを望まれます。

出来ることなら、『そういう人もいる、いろんな人がいる』ということを受け入れられる世の中になって欲しい。

生まれてこの方、ずっと、そのままのわたし、あなた、みんな、でいたいし、そのまま認めて欲しい。それは障害者と言われる人たちだけではないはず。

真っ赤なスカートをはきたいのにここでは黒が望ましいから黒いスカートをはく。
何故赤いスカートをはいえはいけないのか。
みんなが黒いスカートをはいているから。
そんなもんなのです、きっと。



人はどうしても、その人の一面だけをみて
この人はこういう人
と判断しがちです。

みんな黒いスカートはいてるのにあの人だけ赤いスカートはいてる。
空気読めない人なんだね。

わたしももそうジャッジしてしまうこともありがちなんですが、その人を24時間365日ずっと見つめていたわけでもないのに、この人はこういう人だから相容れないとジャッジしてしまったりするのは残念なことだなと思うのです。

人は多面体であって、うわーやだなー何この人、と思う面もあれば、あら?こんなふうに考えるんだ、素敵、と思う面もあります。

会社で見せる顔
自宅で見せる顔
友達に見せる顔
それぞれの世界

障害者と言われる部分
そうでない部分

夫は健常者(障害者手帳はないという意味で)のわたしよりも社会的に認められています。

100%素晴らしく完璧な人間でなくてもいいし、そんな人いないと思うのにそれを求められるのはなぜなんだろうかといつも思うのです。

何か抜けている人の方が人間らしく、愛おしいと思うのです。

こうであるべきだ、とか
こうあらねばならない、とか
いま、わたしたちはそんな社会の中で生きづらさを感じています。

毎日息を止めて暮らすわけにはいきません。
たまには海面に顔を出して、ぷはーっと息抜きをしなければとてもじゃないが苦しくていられない。

そんな息抜きの場所として、『ここから』はこれからも存在し続けたいなと思っています。

息抜きをして、泣いて笑って、そしたら、また、ちょっと頑張って息を止めて暮らすことができます。

少しでも息を長く止める方法も少しだけみんなでシェアしたり、情報を交換しながら、何とかやっていこう、わたしもあなたも共に頑張ろう、というスタンスでこれからもやっていきたいなと思っています。もちろん積極的に学びたいという人もうちの会にもいて、深い学びも可能です。

ただ、何より、無理をすることなく、生まれたまま、育ったまま、あなたらしく生きていけることが最優先だとわたしは考えます。

変わりたければ変わることもできる。

けれど、変わらない無理していないそのままの自分も認めて欲しいと思うのが人間なんじゃないかな、というのがわたしの考えです。


『わたしは薬を飲み続けます。だって、みんな、薬を飲んでいるわたしのことが好きだから』

そう言った女の子の言葉が忘れられないのです。

本当は薬を飲んでいないわたしを愛して欲しいと彼女は思っているはずだから。