翌々日の昼前。

約束どおりタカさんがマグロを持ってきた。前にも言ったとおり立派なマグロだ。

「さあ、煮るなり焼くなり勝手にしてくれ。それとオレはビールとアジフライね。今日のアジもマグロに負けねえやつだから、きっちりフライにしてやってくれよ。」

「タカさん、いいんですかこんな立派なもの。」

「仕方ねえよ。正直、下心はあったしな。スケベな気持ちを持った罰なんだよ。素直に懺悔するから、素直に受け取ってくれ。」

「ありがとうございます。早速これも刺身にしますよ。」

女将さんもタカさんの隣に座って説教を始める。

「あんた、ユイちゃんを膝の上に乗っけて何しようとしてたんだい。なんならアタシが代わりに座ってあげようか。」

「勘弁してくれよ。でもさ、男ならあんな可愛い子、膝の上にぐらい乗っけたいと思うのが普通だぜ。」

「ほう。今の話、みっちりとアンタのカミさんにしてやってもいいんだけどなあ。」

「おいおい、だからちゃんと詫びの献上品を持ってきてるじゃねえか。もう二度と勝負したりもしないよ。あの子には絶対勝てっこねえってのがわかったからな。」

タカさんのおかげでこの日の昼から特別ランチが設定できた。おかげで繁盛したことは間違いない。

しかも一昨日の夜、あの席に居合わせた客たちは、タカさんがどんなマグロを持ってくるのか、順繰りに様子を見に来たもんだから、結果的に夜の部は再び盛況な賑わいとなったのである。

その夜、ヒデさんも様子を見に来た一人であった。

「やあ、これはすごいな。こういうイベントを続ければユイちゃんの一人勝ちだから、『もりや食堂』も大もうけできるんじゃないの?」

「そんなことしたらユイの体が持ちませんから、やりませんよ。」

「ヒデさん、そんなのイヤよ。もうやらないわ。」

「あははは、冗談だよ。しかしこのマグロは旨いな。」

すでにヒデさんの前に出されていた刺身盛りは半分が無くなっていた。今宵も楽しい宴は遅くまで続いた。

 

それでも梅雨の季節は、やや客足が遠のく。

普段どおりに昼ごはんや晩ごはんを食べに来る客はそうでもないが、特に夜の家族連れが圧倒的に減るのである。そういったときの仕入れこそが難しい。材料を廃棄しなくてもいいように、期限の迫った材料は賄いで食べることになるのだ。

ある日の賄いもそんな料理だった。

ユイは餃子の皮と納豆を目の前にしてネギを刻み始めていた。納豆も大まかに刻んだら、ネギとあわせて大きめの皿でゴリゴリとかき回していく。スクランブルに炒めた玉子も混ぜ込んだら、それを餃子の皮で包んでいくのだ。賄いにしては手の込んだ料理になってしまったが、それを焼き餃子同様にして今日の昼のおかずとなっていた。

「ユイちゃんもかなり料理が上達したねえ。これは旨いぞ。」

「面白いもんを作るねえ。これだとオカズっていうよりもツマミの方があいそうだね。夜のビール用に少し残しといてね。」

餃子の皮がガッツリあったので、テキパキと数十個は包み終わっていた。残ったら油で揚げようと思っていたらしい。

「ボクの分も残しておいてもらおうかな。」

「あんたの分は自分で作りな。これぐらいできるだろ。」

「ユイが作るからうまいんじゃないですか。」

「馬鹿、その辺のオッサンたちと同じこと言ってるんじゃないよ。」

今日も賄いご飯の時間は和やかに過ぎていた。

そんなある薄曇りの昼時を少し過ぎた頃、見覚えのある男が店の戸を開けた。

「いらっしゃいませ。」

と言ったものの、女将さんの動きが止まった。

「ああ、いつかのお兄さん。どうぞそちらにおかけ下さい。今日はどのようなご用件で。」

「例の青年が戻ってきてるってヒデから聞いたもんだから様子を見に来たんだ。ちょうど近くを通っていて、しかも昼メシ時だったしな。」

そう、彼はホストクラブの店長米倉氏だった。

「ユイちゃん、キョウちゃんを呼んでおいで。」

女将さんはユイにそういうと、厨房へボクを呼びに来た。

「キョウちゃん、お客さんよ。」

「誰?」

「キョウちゃんを助けてくれた人。」

ボクは誰だろうと思い、女将さんのそばで座っている男に挨拶に行った。

「これはこれは、その節は大変お世話になりまして。おかげ様で無事に暮らしています。」

「かっこいいじゃねえか。どうだい、あれからウチの店に来る気になったかい。」

「冗談でしょう。ボクには勤まりませんよ。」

「まあいい、いつでも受け入れてやるから。ところで今日は相談に乗ってもらおうと思って来たんだ。今度ウチでちょっとしたパーティをやるんだけど、その料理を見繕ってくれねえかな。」

やや驚愕とも思える申し出だった。そこは新宿でも有名なホストクラブ。ウチはしがない町の大衆食堂である。特に名物もなく、メディアでも紹介されることはない。そんなボクらに何ができるというのだろう。

「ウチは大衆食堂ですよ。どこにでもある肉じゃがや野菜炒めを普段どおりに提供する店です。ちょっと無理がある様に思いますが。」

「ところがだ。こんど団体で来る客がアメリカ人のセレブ集団なんだよ。食事はどこかの料亭に行くらしいが、それも食い飽きた。庶民の味を堪能させろと言うんだ。しかも酒場へ繰り出すのは面倒だから、お前の店で用意させろときたもんだ。それでお前さんの顔を思い出したって訳だよ。ヒデには了解もらってるけどな。」

ボクは親方の顔色を伺った。親方は女将さんの顔色を伺っている。その後女将さんはユイの顔を見ていた。するとユイが思い切った発言をする。

「新しい献立は作りません。今ここでできるもの、それでいいですか。」

その質問は〝受ける〟ことが前提の問いかけである。

「さすが女は度胸だな。もちろんそれでいいぜ。メニューは前もって相談しながら決めよう。ニッポンの大衆の味ってやつを思い知らせてやろうぜ。」

一瞬でやることが決定してしまった。

「時期は再来週の木曜日午後十時。平日だから丁度いいだろ。助かったぜ。謝礼は弾むからよ、十人分、頼んだぜ。運搬はウチの若いもんにさせるから、軽トラ一台もありゃ足りるだろ。ははははは、再来週が楽しみだ、ははははは。」

米倉氏はその後、ウチの焼きサバ定食を満足げに平らげて帰っていった。

一瞬の嵐が通り過ぎたような感覚だった。

「良かったなキョウちゃん。いい仕事が舞い込んできて。」

親方の顔はいつになくニコニコしている。

「さすがはユイちゃんだね、臆することなく条件提示で一発サイン、ってとこだね。」

女将さんもユイを持ち上げてボクの背中を叩く。

確かに今ある献立で済むなら大きな問題はない。しかし、本当にそんなものでアメリカのセレブたちは喜ぶのだろうか。

 

 

#新たな挑戦を迎える朝

 

翌日、米倉氏がフロアマネージャーと名乗る足立という男と共にやってきた。当日の献立の相談だった。ウチでできるもの、そして運搬が可能なもの、取り分けが容易なもの、決して料亭では出ないもの。などが選択の条件だった。

献立のプランについて親方はボクに一任してくれた。

「キョウちゃんとユイちゃんが受けた仕事だ。二人で考えて決めればいい。ワシはお前たちに協力するだけだよ。ワシも今から楽しみだな。」

ボクが提示した献立は、肉豆腐、茄子煮浸し、ジャコと糸蒟蒻の炒め物、イワシの生姜煮、煮玉子と竹輪の天ぷら、それにトンカツとチキンカツだった。

「天ぷらまではわかるが、トンカツやチキンカツなんて向こうでも食うんじゃないの?」

足立氏の素直な疑問だったが、似たようなものはあるかもしれないが、実はこれが和食として認識されていることをどこかで見た気がしたので、それを説明すると、

「まあ、アメリカ人だから、肉もあったほうがいいよな。」

と納得してくれた。

もちろん、この二つを持ち出したのは、圭ちゃんを引き込もうというボクの作戦でもあったのだが。

米倉氏は先日の焼きサバが旨かったから、それも欲しいと言ったが、サバは骨があるので、箸が必要だし、焼き魚は料亭で良い物を食べていると思うというと、足立もボクの意見に賛同した。

それぞれどんな料理かを一つずつ説明し、ボリューム感などを相談した結果、ボクが提案した献立は全て採用されることとなり、これらを二日間ほどかけて十人分を作ることになった。その事を早速圭ちゃんに連絡する。

「再来週の木曜日、ちょっとイベントメニューを受けることになった。ついてはトンカツとチキンカツを圭ちゃんにお願いしたい。十人前ずつ、いけるでしょ。」

ボクは電話口で米倉さんの話を大まかに説明して、その一部を圭ちゃんに受けてもらいたい旨を依頼した。

「おいおい、そんな面白そうな話、どっから湧いて来るんだ。一介の食堂にしては話が大きくない?」

「そうだね。ボクの先輩のおかげだよ。恩に着なくちゃ。だから立派なトンカツを出したいんだよ、協力してよ。」

「よし、わかった。ウチにとっても、いやオレにとってもチャンスのような気がする。親父を説得してみるよ。」

と行って電話を切った圭ちゃんだったが、親父さんは説得どころか、「何で二つ返事じゃないんだ」と怒ったらしい。

結局は十人前のトンカツとチキンカツをそろえて、当日の夜九時に食堂まで持ってくるという手はずになった。

ウチも他の料理を揃えなければならない。親方も女将さんも含めて四人で大忙し。イベントのことを知ってる常連客は背後で応援してくれる。

茄子の出汁加減、イワシの火加減。合間の時間にジャコと糸蒟蒻を大きめのフライパンで炒める。煮玉子は前日にタレに付けておいたものを、竹輪には事前に少し味をつけておいたものを、それぞれ天ぷらにしていく。一度にこんなにたくさんの料理を作るのは初めてのことだ。少々焦りながらも時間ギリギリの十分前、五品、十人前の料理が完成した。同時にタイミングよく、圭ちゃんが大きな箱を抱えて入ってくる。

「キョウちゃん、そっちはどうだい。こっちは万全だぜ。」

「ああ、こっちも今できたとこだよ。」

すでにクラブの“若いもん”は店で待機している。

こっちは大なべが三つと大きなトレーが二つ。圭ちゃんのところは大トレーが三つである。持って行った後の盛り付けについては足立氏にお任せとしてある。店には専門の調理スタッフがいるらしいので、彼らにお任せすることになるのだ。

「もちろん例のタルタルも用意してるんだよね。」

ボクは一応確認してみたたが、

「それを忘れちゃチキンカツの意味ないじゃない。オレとキョウちゃんの友情の証しだぜ。忘れるわけないだろ。」

「よし、それじゃ運んでもらおう。」

店が用意してくれた“若いもん”は二名。汁物もあるので、やや重い鍋もあるが、こぼさないように運んでもらう。

皆一仕事終えたことに満足し、大きなため息をついていた。

ボクは圭ちゃんの協力に感謝し、労をねぎらった。

「圭ちゃんありがとう。助かったよ。請求書はあとでちゃんと回してね。」

「いいけど、キョウちゃんとこはいくらもらえるの?それ以上のもんは請求できないじゃない。」

それを聞いてボクも初めて気が付いた。

「そういえば、そんな金額決めてなかったよ。まあ、十人前だから一人三千円としても三万円より少ないことはないんじゃない。ウチは材料費が安いから二万円渡してもウチの損はないよ。」

「なあに。ウチも面白い企画に参加させてもらったんだ、多少の赤字は覚悟の上さ。」

そんな話をしていたボクたちだったが、後日驚愕させられることになろうとは思いもしなかった。

とりあえずはビールの栓を抜いて皆で乾杯だ。

「親方も女将さんもユイちゃんもお疲れ様。」

圭ちゃんは皆の労をねぎらってくれる。

「あんたもね。ウチのバカ息子が無理な注文して悪かったね。」

「楽しかったですよ。キョウちゃんと一緒に仕事ができて。」

「ありがとう。」

ボクたちの新たな一歩目は無事に踏切台を超えたのである。

 

翌日、米倉氏と足立氏が開店時間早々に、そろって店にやってきた。

「こんにちは。」

店に入ってきた彼らの姿を最初に見つけたのは女将さんだった。

「いらっしゃいませ。どうぞこちらのお席へどうぞ。すぐに呼んできますから。」

そう言って奥のテーブルへ案内した。

ボクは女将さんに呼ばれてテーブルに着席する。どんな評判だったか、かなり気にしていたので、特別に緊張した面持ちで二人の表情を見比べていた。

するとにこやかな表情で米倉氏がボクに話し始めた。

「恭介君、お疲れさんだったね。評判は上々だったよ。しかもキミの狙い通りだったようだ。全ての料理に絶賛だったよ。今まで行った料亭では絶対に見たことがないものばかりだったと言われて、オレの株も大いに上がったってわけさ。一番人気は竹輪の天ぷらと茄子の煮浸しがいい勝負だったかな。オレとしてはちょっと意外だったけど。トンカツもチキンカツも大いに喜ばれたよ。肉があったのはやっぱりよかったな。それにオレも味見したけど、あのタルタルは面白いな。今度その店にチキンカツ食いに行くよ。いやあ、いい刺激だったよ。」

「ホッとしました。実はドキドキしてたんです。昨日の夜もあまり寝られませんでした。」

すると足立氏もウキウキした顔で話が弾む。

「いやあ、気持ちよかったよ。なんだか奴らの鼻を明かしたみたいでね。キミたちのおかげだよ。彼女たち、また来ると思うよ。またぞろ別の友だちを連れてね。自慢たらたらで連れてくるんじゃないかな。」

すると米倉氏は上着の懐から封筒を取り出してボクの目の前に出した。

「これはキミたちの取り分だ。友達の分も含めてだけどね。」

ボクは思いのほか分厚く見える封筒に恐る恐る手を伸ばし、中を確認して驚愕した。

中には一万円札が五十枚入っていた。

「こ、これは何かの間違いでしょ。ボクたちをからかってますか?」

「いや、これはキミたちの正当な取り分だよ。ウチはホストクラブだぜ。セレブ達からこれ以上の報酬をもらっているさ。少なくて申し訳ないとさえ思ってるぐらいだよ。」

「しかし、ウチはただの食堂です。必要以上の料金はいただけません。もし請求書を書かせていただくなら、ちょっと儲けを多めに入れさせてもらっても、せいぜい五万円ぐらいです。それ以上はいただけません。」

「キミならきっとそういうと思ったよ。なら、こういうことでどうだろう。料理は五万円だった。これは注文した料理の代金として納めてもらう。残りの額はキミのプランナーとしての企画立案料だ。もちろん、お友達への外注費も含んでしまっているけどね。それなら理由は立つだろ?」

するとその様子を見ていた女将さんがボクの肩を叩く。

「米倉さん良いこと言うじゃない。企画立案料だってさ。献立はキョウちゃんが立てたんだろ。じゃあその分はキョウちゃんの仕事だよ。食堂の取り分じゃない。『織田』を巻き込んだのもキョウちゃんの企画だ。それが上手くいったんだから、ありがたく受け取っておきな。それが仕事って言うもんだよ。米倉さん、ありがとうございます。あたしからもお礼を言います。」

「女将さん、正当な仕事をしてもらって正当な報酬を受けてもらうだけです。礼には及びません。そのかわり、またお願いしますよ。」

すると、その会話を確認して、足立氏は上着の懐からもう一つの封筒を出した。封筒の中には二枚の領収書が入っており、受取人が『もりや食堂』のものとボクの名前が記載されたものだった。足立氏は食堂あての領収書に五万円と記入し、ボクあての領収書に四十五万円と記入してボクに押印を求めた。

「キミならきっとそう言うと思っていたさ。オレの準備も間違ってなかったな。」

ボクは親方と女将さんがにこやかにうなずいている顔を確認して領収書にハンコを押した。封筒を受け取る手が震えた。この震えは一生忘れないだろうと思った。

すると親方がボクにいう。

「キョウちゃんあての金はウチのレジに入れてくれるなよ。ウチは五万円もらえれば大儲けだ。あとはキョウちゃんとユイちゃんの取り分だよ。なぁシズ、それでいいんだろ。」

「ああ、もちろんだよ。この話を決めたのはあたしじゃなく、ユイちゃんだからね。」

米倉氏はその様子を見てニヤニヤ笑いながらボクに言い含めた。

「良い彼女だな。大事にしろよ。結婚するんだろ。オレにも連絡くれよな。」

そう言い残して二人は颯爽と帰っていった。

 

二人が帰って間もなくユイがボクのところへ駆け寄ってきた。

「どうだったの?ちゃんとお金貰えたの?喜んでもらえた?」

やっぱり心配してくれていたようだ。

ボクたちは米倉氏がヒデさんの先輩であることに緊張を覚えていた。この仕事に失敗することはヒデさんの顔に泥を塗ることにもなりかねない。そうなると恩を仇で返すことにもなる。臆することはないかもしれないが、ヒデさんに迷惑をかけるわけにはいかないのだ。

それが結果的に良い評価を得られたことで、喜びよりもホッとしたことが第一だった。

ボクはユイの手を取り米倉氏と足立氏から聞かされたままの評価について伝えた。

「米倉さんがね。とっても良かったって。そしてこの仕事を決めたのはユイだから、彼女を大事にしなさいって言ってたよ。お金は思った以上に置いていってくれた。圭ちゃんにもいい報告ができるよ。」

「うふふ。よかったわね。」

口数は少ないが、とびっきりの笑顔でボクを称えてくれる。

女将さんはユイの後ろから抱きしめるように腕を回して、

「キョウちゃんはすっごい評価してもらったんだ。これで結婚の資金ができたっていうぐらいにね。」

「ええっ?いったいいくらもらったの?」

「いや、これは全額食堂の売り上げだよ。半分は圭ちゃんに渡して、残りは食堂の売り上げに入れるよ。ボクたちはいつも通り親方から給料をもらうだけさ。」

すると親方が女将さんと顔を合わせてボクとユイに言い聞かせる。

「そう言う訳にはいかねえんだよ。領収書にはお前の名前しか書いていない。あの金をウチのレジに入れるわけにはいかねえ。それにウチに入れてもらう分だって過分の額だ。礼を言うよ。残りの報酬は間違いなくキョウちゃんの取り分だ。二人が結婚するための資金になるなら尚更だ。ワシもシズもそうしてほしいと思う。早くお前たちの結婚式での晴れ姿を見せてくれ。」

「キョウちゃん。親方も女将さんもそう言ってくれてるんだから、ちゃんと圭ちゃんにお礼して、残りは貯金しておきましょ。」

ユイはそう言ってボクの手を握った。

「うん、わかった。親方も女将さんも、ありがとう。」

その日の昼過ぎ。『織田』に電話を入れると、圭ちゃんは電話に出るなり興奮した様子で質問攻めでボクに問いかける。

「キョウちゃん、例のヤツどうだった?喜んでもらえたか?いくらもらえた?朝からずっと気になって仕事にならないんだ。」

「過分の報酬をもらったよ。今から圭ちゃんの取り分を渡しに行くから待っててくれないか。一時間後には行けると思う。」

「いや、ユイちゃんにも会いたいし、オレがそっちへ行くよ。」

結局圭ちゃんがこっちへ来るようになったのだが、来るなり興奮冷めやらぬ様子だ。

「ユイちゃん、とりあえずお茶をちょーだい。で、聞かせてよ、どうだったか。」

「とりあえず、チキンカツは好評だったよ。米倉さん、今度『織田』にも行くって言ってたよ。」

「そうか、それは楽しみだな。でもそれよりいくらもらえた。」

ボクは用意した封筒を出した。

「基本、折半でいいだろ?」

圭ちゃんは手に取った封筒の中を見て驚愕する。

「おい、オレは全部くれなんて言った覚えはないぜ。たかだかカツ二十枚じゃない、せいぜい多く見積もっても三万円で大儲けってとこだよ。この半分もいらないよ。請求しにくいっていうなら、ちゃんと請求書出そうか。」

「違うんだ。全部で五十万円ももらったんだ。そのうち、親方が食堂には五万円でいい。あとはお前たちで分けろって言うから、仕事を決めたユイに五万円だけもらって、後をボクと圭ちゃんで折半しようって言う事さ。」

それを聞いた圭ちゃんは封筒の中から五万円だけ抜くと、残りを封筒にしまってボクの前に差し出した。

「そういう事なら、ウチも折半で五万円もらう。これでウチは大儲けだ。あとは間違いなく献立を考えたキョウちゃんの取り分だよ。ウチのことを考えてくれただけで、オレは満足だ。しかもユイちゃんの取り分が五万円って少な過ぎないか。キョウちゃんがウチの取り分だと思ってる分は、ユイちゃんの取り分だよ。」

そう言って懐から領収書を取り出し、五万円と記入してボクに渡した。すでにハンコは押してあった。

「圭ちゃんの協力があったからできたんだ。もし次があったら、その時は打ち合わせの時から呼ぶね、いいだろ。」

「ああ、いい経験になったよ。親父もお袋も喜んでたぜキョウちゃんと一緒に仕事ができたこと。こんど、ユイちゃんを連れて遊びに来てよね。」

そろそろ夕方の賄いの時間だ。ユイがボクと圭ちゃんが座っていたテーブルに料理を持ってきてくれた。

「女将さんがね、三人で食べなさいって。」

親方と女将さんが用意してくれたのは、昨日の残りの肉豆腐と茄子の煮浸しとイワシの生姜煮だった。

「これ、昨日の残りじゃない。」

ボクが怪訝な顔をしていると、ユイがにっこりと微笑んだ。

圭ちゃんはそれが昨日の残りだと聞いて大いに喜んだ。

「なんだって、そういえば昨日はキョウちゃんたちが作った料理、全然チェックしてなかったんだな。帰ってからお袋に散々叱られたんだっけ。忘れてたよ。これ、女将さんの差し金だな。」

「うふふ。昨日食べて帰らなかったから、きっと女将さんに叱られてるだろうって。」

なるほど。そういうことだったのかと思った。

圭ちゃんは一つ一つの味を確認しながら、満足げに食べた。

「みそ汁は私が作ったのよ。」

ユイが自慢げに話すと、圭ちゃんはおどけたように、

「そうだと思った。これが一番おいしいもの。」

だってさ。調子のいいのは変わらないってことかな。

このことをきっかけにボクたちは月に一度はお互いの店に通うことになるのだった。

そろそろ梅雨も終わりかな。今のボクたちには晴れ渡る青い空が待ち遠しい。

 

 

 

#ケジメをつけるために朝は来る

 

そして梅雨も明けたある夏の夜。暦が次の月に変わっていた頃、店の片づけが終わってから親方がボクとユイを厨房に呼んだ。

「今日もご苦労様でした。はいこれ。」

そう言って渡されたのは、明らかに給料袋である。ボクたちの給料日は毎月月末と決まっており、今日はまだ月の中日だ。

「親方、大丈夫ですか?今日はまだ給料日じゃありませんよ。」

「あのな、ワシを老人扱いするんじゃない。まだボケとらん。これはなボーナスだ。二人が来てからワシらの仕事が楽になって、しかも客も増えた。これはお前たちが受け取るべき当然の報酬なんだ。少ないけど、気持ちだから受け取ってくれ。」

「親方、毎月の給料でも精一杯でしょう。ボクたちは昼も夜もここで食事させてもらってるんです。今貰ってる給料だけで十分ですよ。」

「そうよ、私も今のままで十分だと思ってます。気持ちだけで十分ですよ。」

すると女将さんも厨房に入ってきた。

「黙って受け取っておきな。それと明日から三日間、お前たちは夏休みだよ。ちょっとお盆には早いけどね。」

いつもの様に言い方はぶっきらぼうだが、言ってることは優しさにあふれている。しかも、またぞろ何か魂胆がありそうだ。

「キョウスケ、その休みの間にユイちゃんの実家に行っておいで。そんでもってちゃんと結婚する準備を始めな。それがボーナスと夏休みの理由だよ。以上。質問や意見は一切受け付けないからね。はい、二人ともとっとと帰った帰った。」

そう言ってあっけらかんとして厨房を出ていく女将さん

すでに親方は向こうを向いて口笛を吹きながら作業着を脱いでいる。

「親方、ありがとうございます。ボク、行ってきます。」

そのときユイはボクの隣りで下を向いたままだった。それでも意を決したように女将さんのところへ駆け寄って、抱きつきながら礼を言う。

「ありがとうございます。明日、恭介さんと一緒に行ってきます。」

「うん。行っておいで。キョウスケ、ちゃんと挨拶しておいで。反対されてもいい。しっかり報告して来い。もう誰が反対しようと、お前たちが結婚することは決まってるんだ。このアタシが誰にも文句なんて言わせないんだからね。それと、それが終わったら、栃木にも行ってくるんだよ。だから三日なんだからね。」

「はい。」

ボクたちは素直に感謝の意を込めて礼を述べた。

 

その日のアパートへの帰り道。

ボクたちはいつもの様に手をつないで帰っていたが。内心はかなり緊張していた。ボクはもちろんのこと、ユイもまだボクのお袋には会っていなかったのである。

「ユイのお家、今日のうちに電話しておいた方がいいんじゃない。」

「うん、お母さんに電話しておく。キョウちゃんのお家は?」

「うん、ボクもお袋に電話しておくよ。親父はカンカンに怒ってるらしいし。」

部屋に戻るとまず一番にすることは、決まって抱擁とキスである。この日もボクたちは互いの疲れを労いながら体温を確かめ合う。

そして風呂に入って寝るだけ、というのがいつもの生活なのだが、明日は朝から出かけるために、今夜はその準備をしてから寝ることとなる。

まずは前もっての連絡であるが、ユイの方は母親にあらかた説明してあったこともあり、とりあえずは会ってくれることになった。ボクもお袋に電話してみたが、相変わらず親父はボクを勘当状態としてあるらしく、会う事すら拒否された。しかし、お袋は来いというので、一応は行くことにする。

次はネットで宿を探す。ユイの実家は木更津である。ユイは実家に泊まればいいが、ボクはそう言う訳にはいくまい。幸い、駅の近くにビジネスホテルがあったのでそれを予約した。ボクの実家は宇都宮だが、こっちは二人分の宿を探しておいた方がいいだろう。今の勢いではボクが玄関から先に入れるかどうかも疑問だ。

ボクたちは明日以降の不安を抱えながら、今宵も息遣いと体温を感じながら静かに夢の世界に落ちていくのであった。

 

翌朝、ボクたちはいつもより遅い時間に目が覚めた。それでもよく眠れなかったと見え、二人してまだ寝ぼけ眼である。それでも顔を洗って身支度をして部屋を出た。

東京から木更津までは一時間半もあれば到着する。

都心から離れても暑い日差しは変わらない。風はさすがに少し涼しいかもしれないが、蝉の鳴き声が五月蝿いのは同じである。

駅を降りてからユイの先導でバスに乗りさらにバス停を降りてから十分ほど歩く。割と閑静な住宅街にユイの実家はあった。二階建てで小さな庭と窓が大きな家、白い壁が印象的だった。

「キョウちゃん、覚悟はいい?ユイも緊張してるけど、キョウちゃん大丈夫?」

「う、うん。ここまで来たら腹をくくるしかないでしょ。殺されてもいい覚悟で行くよ。」

「うふふ、大げさね。それぐらいの冗談が言えるなら大丈夫ね。」

ユイは呼び鈴を押した。

=ピンポーン=

当たり前のように、当たり前の音が聞こえてくる。

玄関のドアが開き、ユイと雰囲気がよく似た女性が顔を出す。間違いなくユイの母親だ。

「ユイ、おかえりなさい。そしてあなたもね。お父さんがお待ちかねよ、入りなさい。」

彼女はボクの方へも目線を向けて中へと招く。

「初めまして、角田恭介と・・、」

そこまで言ったが、ユイの母はボクの自己紹介を遮るようにして、二人を家の中へと引きいれる。

「いいから、堅苦しい挨拶はいいの。早くお入りなさい。」

ボクは言葉に詰まってしまう。その様子を見てユイがボクの手を引いて家の中へと招いた。

ボクたちは家の奥の居間へと案内された。そこにはユイの父親と思しき人がしかめっ面で座っている。

「お父さん、ユイが帰ってきたわよ。」

「・・・・・。」

父親は黙ったまま、天井のどこかの一点をただ見つめていた。

ボクたちはユイのお父さんの前に座る。そしてユイが挨拶と同時にボクを紹介しようとしたその時。

「お父さん、ただいま戻りました。私の彼を紹介します。」

「ユイ。誰が帰ってきてもいいと言った。母さんはいいと言ったかも知れんが、父さんは許さんからな。」

いきなり非情な空気が流れる。ボクも身を乗り出して自己紹介と挨拶をしようとしたとき、ユイのお母さんが割って入る。

「お父さん、頑張ったって無理よ。昨日の晩からソワソワしてたくせに。」

「五月蝿い。」

「お父さん、ごめんなさい。ユイがお父さんの思うような子じゃないのは許せないかもしれないけど、今はちゃんした仕事してるから。お母さんから聞いてるでしょ。」

「ユイ。お父さんがお前のことをどれだけ期待してたと思ってるんだ。いい学校へ行かせてやって、その挙句に中退して夜の仕事だと?お前の顔なんか見たくもない。」

するとお母さんはニコニコとした顔で笑い飛ばす。

「うそよ、ユイの居場所がわからなくなったとき、どれだけ慌てたと思う?警察に届け出ようか、興信所に依頼しようかって、それはもう大変だったんだから。」

「母さん、そんな事を言ってしまったら元も子もないじゃないか。」

「嘘ついたって仕方ないじゃない。それよりもユイが無事に見つかって何よりだって、真っ先に喜んでいたのはあなたでしょ。」

「ううむ。」

お父さんはとうとう黙ってしまった。するとお母さん、今度はボクに水を向ける。

「さて恭介さん、今度は貴方の番よ。」

「はい。初めまして、角田恭介と申します。今は東京の新宿近くにある『もりや食堂』というところでユイさんと一緒に働いています。ユイさんと結婚しようと思っています。どうかボクたちの結婚を認めていただけないでしょうか。」

ボクは言うべきことを一気に話した。緊張のせいか少し早口だったかもしれなかったが。

「角田君か。その子はもう私の娘ではない。キミたちの好きにすればいい。ただし、私は認めない。キミがどうこう言うのではない、娘のことを許せないのだ。」

「うふふ。ユイ、お父さんね、昨日から知り合いの呉服屋さんに電話して白無垢のカタログ取り寄せたりしてるのよ。私に聞こえないように電話してるつもりなんだけど、台所までまる聞こえなの気付いてないのよ。可笑しいでしょ。」

それを聞いてユイはたまらず父の下へ駆け寄り抱きついた。

「お父さん。ゴメンね。」

「ユイ。」

お父さんもたまらずユイを抱きしめていた。

「お父さん、心配かけたけど、ユイは今とっても幸せよ。だから、恭介さんとの結婚のこと許してね。」

「このこと母さんはどこまで知ってたんだ。」

「うふふ。私はいつもユイから電話をもらってましたからね。かなりのことを知ってますよ。トンカツ屋に行ってたことも、今住んでるところも。恭介さんと結婚したいって言う話も、みいんな知ってるわよ。あなたがへそを曲げてる間中もずっと私はユイと向き合ってきたわ。夜の仕事のことも何となくは感づいてたわ。」

「お母さん、私ね。」

「いいのよ。そんなことは知らなくてもいいの。最終的に恭介さんと知り合えたんでしょ。それでいいじゃない。恭介さん、こんな娘だけどよろしくお願いしますね。ほらお父さん、あなたからもちゃんと挨拶するのよ。」

「ふん、オレは認めんからな。」

そういうとお父さんはとうとう席を立ってしまった。

「大丈夫よ。一旦振り上げた拳を下ろすところが見つからないだけよ。明日になったら違う顔が見られるわよ。うふふ。」

最後の「うふふ」って言うのもユイそっくりだ。

「恭介さん、ユイが帰ってきたのも二年ぶりなの。私たちの知らないユイの話を聞かせて頂戴。」

ボクはユイのお母さんに圧倒されていた。『もりや食堂』でも『織田』でもそうだったが、どこの家でも主導権を握っているのは女性なのかと思った。

ボクはユイのお母さんに導かれるようにして、ボクとユイとの出会いから今に至るまでの話をした。もちろん、ユイがどんな店にいたかは伏せたつもりだったが、お母さんもそこのところは詳しくは聞かなかった。

ボクとユイはなるべく話し過ぎないように話をしていたつもりだった。ところどころ詰まりながらしていた話は脱線したり、時間を戻したりしながらもユイのお母さんが今までずっと知りたかったユイの詳細についても、大まかながら知りうることができたことについて満足してもらったようだ。

「恭介さんありがとう。おかげで今までの時間をいっぺんに取り戻したようだわ。今日は泊まっていくんでしょ?」

「お母さん、ユイはもちろん泊まっていきますが、ボクの分は外に宿を取ってありますから。ユイもお母さんに甘えたいはずです。ボクは今日はこれで失礼します。久しぶりに親子水入らずの時間を過ごしてください。」

ボクはそう言って立ち上がり、ユイのお母さんに明日の朝、ユイを迎えに来ることを約束して家を出た。

家を出て宿へ向かおうとバス亭に向かう途中の角を曲がった途端、ボクは心臓が止まるかと思うほど驚かされた。そこにはユイの父親が立っていたからだ。

「角田君、話がある。ちょっと付き合ってくれないか。」

驚きはしたが、誰だかわかるとボクは次第に落ち着きを取り戻し、「はい」と返事をしてお父さんの後ろに従って歩き始めた。

お互い無言のまま歩くこと数分。小さな小料理屋の前に到着した。そこはお父さんの知っている店らしく、暖簾をくぐると同時に中の女将さんが愛嬌よく挨拶をしていた。

「あら、どうしたの怖い顔して。」

「女将、奥の部屋空いてるかな。小さい方でいい。」

「空いてるわよ。こそこそと何の相談?」

「いいから、ビールとつまみを適当に持ってきてくれ。」

ボクはお父さんの後について行き、ただ適当な愛想をふりまくしかなかった。そして導かれるままに座卓に座った。

「角田君、先ほどは失礼したな。オレもわかってはいるんだ。娘ももう子供じゃないってことぐらい。しかしな、父親にとって娘とは特別な存在でな。」

そこまで話した時、女将さんがビールと小鉢を運んできた。

「いらっしゃい。こちらの若い方、仕事関係の人?」

女将さんが場の雰囲気を和ませようと話しかけてくれたのだが、お父さんはしばらく二人だけにするようにと言い聞かせて、部屋の外へ追い出してしまった。

ボクはビールを注ごうとして瓶を取り、お父さんのグラスに注いだ。お父さんもボクのグラスに注いでくれる。

「酒が入る前にはっきり言っておきたい。」

その言葉を聞き、ボクに本日最高の緊張感が走り抜ける。

「一応認めないとは言ったが、もはやユイはオレの手を離れている。ここから先はキミに託すしかないようだ。角田君、娘をよろしく頼む。」

「お義父さん。」

ボクは初めてこう呼んだ。

「今日、キミがウチに泊まるような輩だったら、オレは本気で反対するつもりだった。だが、キミは娘をウチに預けて外へ出た。その瞬間、オレはキミを信用することにした。本当ならもう少し若い婿を想像してたんだけどな。まあでも今のユイにはキミのようなしっかりとした連れ合いの方がいいのかもしれない。そう思うことにした。だから、乾杯。」

その言葉を胸に刻み込んで、その場で立ち上がり深々と頭を下げた。

「改めまして、角田恭介です。これからもよろしくお願いします。」

「うんうん。まあいいから座りなよ。固い話はお終いだ。今のユイの生活を聞かせてくれ。どうせ一緒に暮らしてるんだろ。」

「はい、すみません。」

「いいんだ。オレもキミが思うほど堅物のつもりはない。どうせ一緒になる人なら、予行演習ができてると思えばいいだけじゃないか。」

「ありがとうございます。がんばります。」

これからは素直にお義父さん、お義母さんと呼べるような気がした。

打ち解けた男同士の話が弾む小料理屋の時間はゆったりと過ぎていった。ボクはホッと胸をなでおろし、今宵の宿へと向かった。

都会と異なる夜の風は、熱く緊張していたボクの皮膚をゆっくりと冷ましてくれていた。

 

 

つづく