その三日後のこと。
親方がボクを厨房に呼んだ。
「今日からつけあわせを頼むよ。」
この店の付け合せは、キャベツにポテトサラダに、メニューによっては目玉焼きやきんぴらごぼうをつけるのである。従ってボクの仕事は回転前の仕込みに重点が置かれる。
基本的な材料と調合は女将さんに教えてもらう。味が変わってはいけないからだ。
これらの作り方については、『もりや食堂』で親方に仕込まれた経緯があるので、ボクにとってさほど難しいことではなかった。材料の配分が少し違うだけである。
さらに親方はボクに課題を与えてくれた。チキンカツに合うタルタルソースを作れと。
この店の基本のタルタルはエビフライや魚フライ用にレシピがある。チキンカツにも客のリクエストに応じてタルタルを出すのだが、親方はシーフード用とチキン用とで違うものを用意したいらしい。
それは店にとって重要な仕事だと思い、「これはボクではなく圭太さんに頼むべき仕事だと思います。」として辞退したのだが、圭ちゃんもボクがどこまで出来るのかを見たいようで、ニヤニヤと笑いながらボクの背中を叩く。
「キョウちゃんのイメージでいいよ。使う使わないはオレが決めるから、あの丼みたいなどこにでもあるような、それでいてどこにもないような、そんなものがあったらいいな。」
それを聞いて女将さんは親方に忠告する。
「あんまりハードルを上げてやるんじゃないよ。何でもいいってしておきな。どうせ自分じゃ何も思いつかないくせに。」
「うるせえ。まあどっちみちなんでもいいことは確かだ。期限は一週間。圭太に相談したって何にもヒントなんか出やしないぜ。先に言っとくがな。」
「よし、じゃあオレもキョウちゃんとは別口で考えるよ。」
親方がボクだけに課題を与えたことが刺激になったのか、圭ちゃんも意欲的に参加してきた。つまりは、とうとう新しいタルタルを考える羽目になってしまったということである。
この店のチキンカツはムネ肉とモモ肉のセットが人気だ。あっさりムネ肉とこってりモモ肉のコンビネーションが丁度良いバランスを醸し出している。
またボクにとって忙しい一週間になりそうだ。
店が終わると圭ちゃんとボクとで二人して厨房で考えを練っている。特に競争している意識はないが、今のところは情報を交換していない。
そうこうしているうちに三日ほどたったある夜。ボクたちの手が動き出す。
ボクのレシピはこうだ。イメージはタンドリーチキン。どうせゆで玉子の黄色味が目立つのだから、より黄色く仕上げようというのが考え方の土台。思いついたのはカレー粉だったが、スパイシーになり過ぎないようにしたい。いくつかのスパイスを試した結果、ナツメグとカルダモンとクミンを多めに配合し、最後にターメリックで色づけた特製パウダーが完成する。ベースとなるソースは日本酒にチーズを溶かし込み、アルコールを飛ばす。それにマヨネーズと甘酢を少し加えたものに特製パウダーをミックスするのである。
圭ちゃんのは赤いソースだ。どうやらトマトケチャップだと玉子の味が消されるので、トマトピューレを使っているようだ。さらにデミグラスソースとマヨネーズを加えて、仕上げにはボクと同じように酸味を追加していた。彼はその酸味をリンゴ酢から調達した。
この時点で初めてボクらは情報交換をした。互いのソースを味見し、それぞれのポイントについて意見を戦わせた。
結果的にボクのソースには和からしを、圭ちゃんのソースにはハチミツを加えることになった。後で聞いたのだが、ボクたちの様子を厨房の外から親方夫婦が見守っていたらしい。この半共同作業によって完成させたタルタルつくりをきっかけに、ボクたちは益々友好を深めることとなったのである。
そして期限の一週間後。
親方夫婦と従業員、そしてアルバイトのおばさんたちに味見をしてもらう。
従業員もアルバイトもどっちがどっちとは言いにくい。ボクとしては競ったつもりはないし、普通に圭ちゃんのレシピが美味しかったので、みんなしてそちらを指示してもらえばよかったのだが、親方の意見は違っていた。
「双方とも不合格だな。」
その瞬間、圭ちゃんが不満げな表情で親方にその理由を聞いた。
「理由としては手間がかかりすぎる。忙しい合間を縫って誰がこれを作るんだ。鮭のアルコールを飛ばしたり、トマトピューレを煮出して余分な水分を飛ばすのに何時間かかる。しかもスパイスやデミグラスの配合が難しすぎる。」
ボクたちは二の句がつけなかった。しかし、圭ちゃんは意を決したように親方に進言する。
「時間はオレが見つけて作る。このレシピはオレの専属にしてもらってもいい。」
その言葉を聞いた親方は、厳しかった顔が急に優しい顔になり、女将さんに了解をもらうかのようにうなずきながら言った。
「圭太、その言葉を忘れるな。明日からこのレシピはお前の担当だ。どんなに時間がなくても、ストックを切らすことはまかりならん。そう思え。」
それを聞いた圭ちゃんの顔がほころんでいく。
そしてさらにこうも言い放った。
「キョウちゃんのタルタルもオレは好きだ。レシピを教えてもらって、それもオレが作っていいか?オレが責任を持って教えてもらう。」
すると親方は、
「圭太。その言葉を待っていた。ハッキリ言ってお前のタルタルはモモ肉向きだ。それに対してキョウちゃんのタルタルはムネ肉向きだ。両方使いたいと思っていたところだ。お前が責任を持ってくれるなら、オレはこのタルタルを両方採用する。これはお前たちの共同作業の中で生まれた産物だ。ウチの名物タルタルにしてやるよ。」
このとき、親方がボクたちの作業をずっと見ていたことが明かされたのである。
翌日からこのタルタルは名物タルタルと称して大々的に客に提供された。もの珍しさも含めて、多くの客がチキンカツを注文することになるのである。
ボクがこの店に来てから二ヶ月と少しが経過した頃、またぞろ親方に厨房へ呼ばれた。
「キョウスケ、今日から本格的にオレのカツを教えてやる。圭太にもまだ教えていない秘密があるんだ。それを伝授してやる。」
その日からボクは、営業中から親方の後ろに立ち、作業手順と仕事ぶりを覚えていく。肉の切り方、筋切りの仕方、脂の残し方など、親方のこだわりが随所に見られた。
ボクが『もりや食堂』の親方に唯一教えてもらわなかったレシピ。それを今、別の店で教えてもらえるのである。
その五日後あたりから、実際の仕込みを行う。アジの選び方はユイに教わっていたが、キスやカレイやワカサギ、そして鮭の切り身の選び方も教わる。魚屋で選び方を間違えると親方から怒鳴り声が飛んでくる。肉の切り方を間違えた時もまた同じであった。
何度か失敗を繰り返すと人はその間違いを覚えるものとみえる。ボクも仕込みを教わり始めて二週間後あたりから、親方からの怒号が減った。
そろそろ、元々の約束の期間である三ヶ月が経とうとしていたとき、今日は夕方早くに店を開けると知らされた。ボクは親方の友人が来るか、近所の商店街の集まりがあるのかと思っていた。しかしそれは違っていたのである。
その日のランチタイムを終えると、親方と女将さんが急にソワソワしだした。その緊張感はボクだけでなく、圭ちゃんや他の従業員にも伝わっていた。
特に何も知らされていないボクや従業員たちは、ただ夕方のそのときが来るのを仕込みをしながら待っているだけだった。
そしておもむろに店のドアが開く。
「ごめんよ。」
入ってきたのは『もりや食堂』の親方夫婦とユイだった。
「いらっしゃいませ!」
みなが一斉に声をかけたが、一瞬あっけに取られたボクは全く声をかけられなかった。
「キョウスケ、久しぶりだな。」
『もりや』の親方に声をかけられてボクの緊張感は最高潮に高まった。
『織田』の女将は、『もりや』の女将には目もくれず、一目散にユイのところへ駆け寄っていく。どんなシチュエーションでもユイは人気者だ。
「萌愛ちゃん、久しぶりだねえ。元気だったかい?おシズに苛められたりしてないかい?」
「ユキ、この子はあたしの大事なバカ息子のヨメになる子なんだよ。いらないこと言ってないで早くバカ息子の顔を拝ませな。」
「五月蝿いねえ。キョウちゃん、五月蝿いおっかさんが来たよ。」
厨房から駆け出して親方と女将さんの前に立つ。三人に合うのは確かに三ヶ月ぶりだった。
「どうだった?親方も女将もちゃんと叱ってくれたかい?」
「はい。色々なことを教わりました。お返しできるものが何もないぐらいに。」
すると『織田』の親方が出てきて『もりや』の夫婦に丁寧に礼を述べた。
「いい弟子を貸してくれてありがとう。ウチのどら息子もおかげで成長できたよ。キョウちゃんはどう思ってるか知らないが、ウチはもうちゃんと返してもらったよ。」
「ああそうだね。ウチのどら息子の目つきが変わったのは確かだ。恋の腹いせから始まったみたいだけどね。」
今度は顔を真っ赤にして圭ちゃんが飛び出してきた。
「おふくろっ、萌愛ちゃんの目の前でそんなこと言うんじゃない。もう諦めたって言っただろっ。」
ユイはその言葉を聞いて圭ちゃんの前に立ち、深々と頭を下げた。
「私も恭介さんもお世話になりました。またウチにもいらしてくださいね。」
そう言ってニッコリ微笑むと、圭ちゃんの顔がまたぞろ真っ赤に膨れ上がった。
「さて、何を食わしてくれるんだ?」
来店した三人は揃ってカウンターの席に座り、『織田』の親方の動きに注目する。
『織田』の親方はボクにトンカツとアジフライとチキンカツを作るように指示した。トンカツはここの定番だし、アジフライは『もりや』で作らされた最初のフライだし、チキンカツはボクと圭ちゃんの合作ともいえるタルタルを提供したかったのだろう。それだけでも親方の心意気が見えた注文だった。
ボクは多少緊張しながらもまな板と火のついた油に対峙していた。そして教えてもらったことの全てを注ぎ込むかのようにネタを仕上げていく。
そして出来上がった皿を順繰りに運ぶのである。
カウンターで出来上がりを待っていた三人は口数も少なく、やや緊張した面持ちでカツやフライが出てくるのを待っていた。そして三つの皿が揃った時、『もりや』の女将が『織田』の女将に言った。
「ユキちゃんありがとうね。ホント、恩にきるよ。もうこの出来上がりを見ただけで泣けてくるよ。」
「おシズ、それは食べてから言いな。まあ、ウチで三ヶ月もいたんだ。間違いがある訳ないだろうけどね。」
三人で三種類のカツとフライを味見してくれる。特にチキンカツのタルタルは喜んでくれたようだ。それはこの店の自慢のタルタルとして提供されていることを聞かされると、なおさら喜んでくれた。
その時である。
『織田』の親方が、ボクに向かって怒り出す。
「キョウスケ、オレの大事な客になんてもん出すんだ。こんなもんを客に出すやつをウチには置けねえ。お前は今日限りでクビだ。明日から来なくていい。」
それはボクに卒業を意味する言葉だった。ボクは黙って親方に頭を下げた。
「今までありがとうございました。このご恩は一生忘れません。ユイのこともありがとうございました。」
すると圭ちゃんが驚いたような顔をしてボクに問いかけた。
「ええっ?萌愛ちゃんじゃないの?ユイちゃんって言うの?なんで?」
『織田』の女将が圭ちゃんをなだめる。
「ごめんな。お前は本当のことを知らないほうがいいと思ってな。」
「ちくしょー。知らないのはオレだけだったのか。でもいいか。キョウちゃん、最初の約束を覚えてる?納得いかなかったら奪いますよって言ったの。」
「覚えてるよ。」
「納得いったよ。だから、これからもいい友達でいてよね。ボクも萌愛ちゃんに負けないぐらいいい子を探すよ。」
するとユイはボクにそっと耳打ちをしてから圭ちゃんのホッペに「チュッ」とキスをした。
感激した圭ちゃんはボクに「妬ける?」って聞いたので、「もちろん」とだけ答えた。
その次にユイはボクのホッペにチューをしたので、ボクは圭ちゃんに「妬ける?」って聞いたら、「もう妬けないよ」って答えた。
ボクは『織田』の親方にもしてあげたらって言ったら、『織田』の女将さんが慌てて止めにかかる。
「やめとくれ、あたしの大事な旦那に手を出すのは。それならあたしはキョウちゃんにキスしてもらうからね。」
「うふふ。」
いつものようにユイの口数は少なく、後はそっとボクの隣で佇んでいた。
こうしてボクの『織田』での三ヶ月修行期間は終了したのであった。
#卒業の朝と生活が始まる朝
翌日、ボクは『織田』での最後の朝食をみんなで食べ、最後の礼を述べた。
圭ちゃんはボクにタルタルのレシピをくれた。二人でこのタルタルをつないでいこうと約束し、ボクたちの友好の証しとした。
ボクは『織田』を出たその足で『もりや食堂』へ向かう。
季節はすでに春を向かえており、青々とした新芽がいたるところで芽吹いていた。気がつけば桜の季節さえ、すでに終わっている。そう思えばあっという間の三ヶ月だったかもしれない。
久しぶりの『もりや食堂』の暖簾である。ドアを引く手が少し震えている。
「ただいま。」
ボクの第一声は平凡だったかもしれないが、精一杯の挨拶だった。
すぐに駆け寄ってきたのはユイだった。まだ開店前だったが、親方夫婦が目の前にいるにもかかわらずボクに抱きついてくれる。
「お帰り。やっと戻ってきてくれたのね。」
「ボクにはここしか戻る場所がないからね。」
「ここって?」
「ユイがいる場所さ。」
「うふふ。」
すると店の奥からやっと女将さんが現れる。
「いつまでイチャイチャしてるんだい。」
「親方、そして女将さん。角田恭介、本日をもって『もりや食堂』へ帰ってまいりました。より一層のご指導をよろしくお願いします。」
「ああ、お帰り。ユイちゃんもこの三ヶ月間、色々なことを頑張ってくれたよ。それもみんなお前さんと一緒になるためだ。」
「はい。」
「ところで、ユイちゃんのご両親への挨拶はいつ行くんだい?」
「もう少しここでの自信が付いてからにします。出来るだけ早くに。」
「そんな悠長なこと言ってていいのかい。ユイちゃん、ちゃんとコイツの尻を叩かないとダメだよ。」
「女将さん、私がまだ何も話せてないんです。母にも去年の冬以来、会ってないですし。もう勘当されてるのも同然だから、私はいいって思ってるんでだけど、キョウちゃんがちゃんとしなきゃって言うから。」
すると女将さんは大きくうなずいて、
「そりゃそうだよ。お前さんたちを預るあたしの身にもなってくれないと。ちゃんとみんなに祝福してもらって、な。」
そこで親方がようやく顔を見せる。
「おかえりキョウちゃん。待ってたよ。」
「親方、お待たせしました。今日からまた一緒にお願いしますね。」
「もちろんだ。今日から少しは楽が出来ると思うと助かるよ。とりあえず腹は減ってないか。そろそろ早めの昼メシ時だろう。久しぶりにみんなで昼メシを食おうよ。」
「そうだね。よし、ここはイッちょあたしが賄いしてやるよ。」
そういうと女将さんは厨房へ向かう。それを追う様にしてユイが後に続く。ボクはお茶と箸を用意し、親方はデンと座っている。この店では四人で食べる初めての賄いである。けれど、まるで今までもずっと四人でそうしてきたかのような。そんな雰囲気だった。
女将さんは野菜炒めと肉じゃがを大皿で持ってきた。ユイはご飯と味噌汁の担当だ。
「いただきます。」
一見、老夫婦とその息子夫婦に見える光景。なごやかな昼時。そんな言葉が当てはまる四人の団欒であった。
なごやかな団欒の背景と共に賄いを食べた後、ボクは新たな気持ちで店のエプロンを腰に回し、白衣に袖を通す。『もりや食堂 角田恭介』が始まるのである。
食堂に戻ってまず気になったのがメニューだった。ボクがいたときにはなかったアジフライのメニューがあるのだろうかと。
それはあった。今はアジフライとサケフライだけはユイが作っているらしい。非常に評判も良いようだ。
「これからは、アジフライもサケフライもエビフライもキョウちゃんが作るんだ。もちろんトンカツだってお前が作るんだぞ。」
「はい。」
これでボクは『もりや食堂』の全てのメニューをこなすこととなった。ユイはボクが戻ってきてからの仕事が厨房からテーブルフロアへ、接客が主な仕事へと変わる。一般目線から見ても可愛さ有り余るユイの接客姿は、瞬く間に多くの客を呼んだ。特にオジサン連中には抜群の評判で、中にはユイの笑顔が見られるだけで良いという八十を超えたお爺さんもいた。
女将さんのメインの仕事は混雑時を除いては常連客の話し相手となっていた。
あまり話し上手とはいえないユイにとって、女将さんは絶好のお手本となっている。
常連客の中にはボクが戻ってきたことを知ると、早速腕前を試そうとアジフライやサケフライを注文してくれる。
しかし中には、
「オレはやっぱりユイちゃんが作ってくれた方が旨いって感じる。」っていう男性陣の客がいるが、それはそれで仕方がない。ボクだって客の立場なら同じことを言うかもしれないと思う。
ボクが復帰した初日の夕方、早速ヒデさんが様子を見に来た。
「キョウスケお帰り。女将さんから連絡をもらったから早速見に来たぞ。向こうの店はどうだった?ちゃんと教えてもらえたか?ユイちゃんよりも上手く出来るか?」
興味津々で矢継ぎ早の質問攻めだ。それだけ気にしてくれていたと思うと目頭も熱くなる。
「よし、折角だからアジフライ定食してもらおうかな、ユイちゃん。それとビールね。」
「はい。アジフライ定食ひとつぅ。」
「はいよぉ。」
ボクとユイのキャッチボールが始まる。厨房越しのカウンターを挟んで、笑顔で目線を合わせるキャッチボールである。心地よいユイの声が響き渡り、いつもより店内が華やかに彩られる。
「アジフライあがったよ。」
「はぁい。」
ボクが作ってユイが配膳し、ヒデさんが食べる初めてのアジフライ定食。
「ははは、上手く出来てるよ。ユイちゃんが作ってくれた方が嬉しいけどな。キョウスケ、これからが本番だぞ。親方と女将さんに感謝しろよ。」
「はい。ヒデさんにもね。」
「オレにはいいよ。ユイちゃんにお友達を紹介してもらうだけで。」
「ヒデさん、まだそんなこと言ってるんですか。誰も紹介なんかしませんよ。」
こうしてボクの復帰初日の食堂は、普段よりも少し賑やかな夜を過ごすのであった。
店の営業が終わると、後片付けと戸締りをして、ボクとユイはアパートに帰る。
春の夜風が優しくボクたちのそばを通り過ぎる。道路の脇でまばらに咲いている黄色いタンポポは、代わる代わる顔を見せては挨拶しているかのようだった。
玄関の鍵を開けると同時に、ボクはユイを抱きしめた。
「待っててくれてありがとう。やっと戻ってきたよ。」
「ううん、待ってたのはキョウちゃんの方よ。戻ってきたのはユイだもん。今日まで、お互いにそれを受けれるための準備が必要だっただけ。だから、キョウちゃんがユイにお帰りって言うのよ。」
「ふふふ。わかった。お帰りユイ。」
「ただいま。」
ボクらは玄関先にもかかわらず、時間を惜しむかのように口づけをかわした。
部屋の中は流石にきちんと整頓されており、ところどころに女の子らしい雰囲気が装飾されている。
まだ夜の気温はコタツがありがたい冷たさであり、ポットに火をつけると同時にコタツにも暖を入れる。
ボクたちは狭いけれども一つの辺に並んで座り、互いの息を確認する。ユイの匂いがたまらなく懐かしい。やっと戻ってきたという感覚があふれ出るようだ。
ボクはその体勢のままユイを押し倒す。そしてかぶさるように体を預けた。
「あとでゆっくりとね。」
ユイはボクの暴走を制止するように、ボクの唇に指を置いた。
「そうだね。」
ポットの湯が沸き、お茶を入れる。仕事終わりの一息。
「何かお酒を御所申されますか?飲んべの子猫ちゃん。」
「うふふ。懐かしいフレーズね。でももうお酒は控えるのよ。」
「いい子だ。さて、お風呂でも入りますか。」
仕事が終わった後の風呂は一日の疲れを洗い流してくれる。今日は流石に初日だけあって、やや緊張していたかも。
「一緒に入る?」
誘ったのはユイだった。
「断る理由はないじゃない。」
ユイと一緒に入る風呂はどれぐらいぶりだろう。以前、一緒に入った記憶が蘇る。確か、ソープごっこをしたんだっけ。
今夜はお互いに洗いっこ。ユイはボクの背中に泡立ったスポンジでゴシゴシとこすってくれる。そして腕、胸、お腹と順々にスポンジが下りていく。
「ここもきれいにね。」
すでにボクは起立したままユイの指を受け入れている。ボクはユイが持っているスポンジを手に取り、ユイの背中にあてがう。柔らかくスベスベした背中の肌がツヤツヤと光って美しい。
ボクが手にしたスポンジもやがては腕、胸へと移動する。ふくよかな丘陵は今日もやわらかく弾んでいる。
「ここもね。」
といってボクがスポンジの手を下ろそうとすると、
「そこは自分で。ねっ。」
笑顔で言われると逆らえない。
洗い終わると泡を落として湯船に浸かる。そんなに広い湯船でもないので、二人で入るとギュウギュウ詰めだ。密着した体が色っぽい。ボクはずっと起立したままだ。
湯で温まった体はやがて熱く火照ってくる。ボクの衝動が我慢できる限界はとっくに超えていた。もちろんそのままベッドに直行することとなる。
一糸まとわぬ二人の体は、熱く燃えたぎるまま皮膚と皮膚がこすれあう。
互いの祠の中に住んでいるネットリとした妖艶な地蔵と女神は、久しぶりの抱擁を楽しむかのように絡み合っていた。
手のひらにあまりあるふくよかな丘陵は、弾力のある肌がボクの動きを十分に押し返しながら、以前と変わらずにボクを魅了してくれる。
その時二人は同時に先遣隊を派遣していた。ユイの先遣隊は灼熱と化した剣の怒りを鎮めるかのようにそっと指を添えている。ボクの先遣隊はすでに湿地帯の奥に到達しており、今まさに洞窟へ侵入する間際だった。
湿り気を帯びた洞窟の入り口はネットリとした暖かい壁に沿って誘惑の泉が溢れている。先遣隊は本部からの命令を待つことなく侵入を果たし、静かに掘削を始めた。その振動と共にユイの祠から美しいローレライが奏でられ、ボクを魅了する。そしてボクの熱き剣は更なる高まりを興じるのだ。
ローレライと共に吐き出される妖艶な吐息は、ボクを迷宮の中に引きずり込んでいく。妖しき糸に導かれながら、剣は祠の中に吸い込まれていくのだ。祠の中では女神が待ち構えており、研ぎ澄まされた切っ先をものともせずに磨きこんでくれる。
そこで緊張が途切れると、剣の暴発が起こりそうになるので、祠の中で聞こえる「うっ」という声と共に引き上げなければならなかった。
弾力があり、なおかつやわらかな肌は、ボクの皮膚に吸い付くように汗ばんでいた。薄目を開いたようなユイの目がボクに合図をくれた瞬間、剣は洞窟を突き刺していた。すると妖艶に奏でられていたローレライはバラードへと演目を変えて、たった一人の視聴者を幻想の世界へと導く。
正面からの掘削体勢を背面からの攻撃に変えたとき、演目は更なる次の曲へと進んでいた。ボクの先遣隊は、いつの間にか洞窟から丘陵へと移動しており、その頂点も含めた攪拌行動に移っていた。
ユイの祠は角度を変えてボクの唇を探索してくれる。その際、首筋から放たれている爽やかな果実にも似た芳香が、ボクを更なる桃源郷へと誘うのだ。
エピローグがそろそろ見えてきた頃、ユイは突然に主導権を所望する。
目線が下から上へと移ったとき、子猫の瞳が牝豹の眼光に変わった。その瞬間、ボクはただの獲物にならざるを得ない。牝豹は足元の肉に喰らいつくかのように肉をかきむしり、舞台の上で踊り狂う。乱れた踊る髪はまるで宙を舞う竜のようだ。
その激しさに耐えかねるほどの圧が迫った時、ボクはユイに降参を申し入れた。ユイはにっこりと微笑んで、逆無条件降伏を捧げてくれる。そろそろ仕上げのタイミングだ。
ボクは仕切り直しとばかりに、もう一度ユイを眼下に置き、そっと唇を首筋に這わせる。独特の芳香と共に微かに聞こえるさえずりがボクを再び狼へと変えていく。
丘陵の頂点で起立している美しき碑が誘うので、やや強引に喰らいつく。我慢しているのがわかる程の悲鳴が聞こえ、ボクの中の狼はさらに凶暴化する。そして最後の瞬間を予感した狼の剣は、凶暴化したまま洞窟への侵入を開始する。すでに理性を失っている狼は、本能のままにやわらかな肉を堪能していた。熱き剣は再加熱し、激しい動きと共に最後の咆哮を唱えるのである。
その瞬間、ユイはボクにそっと耳打ちした。
「今日は中でいいのよ。」
そして狼は最後の最後まで徹底した攻撃を洞窟の奥深くにて完了したのである。
ボクはユイの耳元でそっと「ありがとう」と呟いていた。
ユイはそれでも黙ったままボクにしがみついていた。
やがて静かな春の夜は、ボクたちを包むように更けていくのである。
つづく