#プロローグ2

 

ああ、遠くでサイレンの音が聞こえる・・・・・。

「ユイ、愛してる・・・・・・。」

 

 

ユイの元カレが所属しているホストクラブの店内、恭介と元カレの周囲に野次馬が雑踏としている中、その一言だけをこぼして恭介の意識は遠のいた。

そして次に恭介が目覚めたのは、さる病院の病室の中だった。

ベッドに寝かされた恭介の周りには、仰々しい姿をした警察官が何人も立っており、恭介が目覚めたと同時に刑事らしい背広の男が二人、枕元に寄ってきた。

「目が覚めたようだな。しかし、えらいことをしてくれたもんだ、この忙しい時に。」

恭介は一瞬何のことかわからなかったが、徐々に意識が覚めてくると同時に、自分の両手に痛みがあるのを感じ始め、そして虚ろに思い出していくのである。

「一応、教えといてやるが、お前が刺した例の男、今朝がた息を引き取ったぞ。これでお前を傷害致死容疑で逮捕しなきゃいけなくなった。わかってるな。」

恭介はまだ完全に覚めきっていない意識の中で、遠くから聞こえてくる刑事の話す声に反応すら出来ていなかった。

「午前八時十五分、傷害致死容疑の被疑者を確保。」

そう言って刑事は恭介の手に手錠をかけた。

ユイがいなくなって三週間ほどが経過したある朝の出来事だった。

そして、ここから物語の第二章が始まるのである。

 

 

 

#十二月の朝から始まった

 

ボクは留置場に拘留されている。

ねずみ色の壁、薄暗い蛍光灯、小さくて高い場所にある窓。

どれもテレビや映画で見たことのある風景とさほど変わりはない。

ボクの痛みは、両腕と手のひらにいくつかの切り傷がある程度で、入院の必要も手術の必要もなかった。傷によっては、何針かは縫ったらしいけれど。

どうやらボクはヤツを刺したようだ。「ようだ」というのは、ボクもさほどクッキリとココまでの顛末を覚えていないからである。

ユイを探しに繁華街をうろついていて、ヤツの顔がキラキラと宣伝されている看板を見つけて、金物屋に行って包丁を買ったところまでは覚えているのだが、その後でそれを持ってホストクラブの店内に入ってからは、朧気な記憶しかないのだ。

きっと店内のフロアにヤツの姿を見つけて、その勢いで刺したのだろう。そしてヤツは死んだらしい。とうとうボクは殺人犯になってしまったのか。それでもいいと思った。ユイがボクの下を去った今、ボクには他に何も失うものはないのだから。

病院から留置場に身柄を移されてからというもの、毎日のように刑事がボクを取調室に呼び出して、色々と聞き出そうとする。

しかし如何せん、本当に朧気にしか覚えていないのである。途中、弁護士と名乗る人が現れて、やはり刑事たちと同じように当時の状況やボクの事実把握の確認をしていく。

ボクは彼らに立ち向かえるだけの気力も意欲も全くなかったと言ってよかった。すでに金物屋で刃物を購入した時点で、自爆自棄になっているのだから、まさに勢いは早く殺してくれと言わんばかりだったのである。

自らの罪の意識と絶望感だけを味わう日々が何日か続いたある日、ふとしたことに気付く。どうやらボクの担当となっている弁護士の先生がやけに馴れ馴れしいことを。そしてその弁護士先生は、ボクの知り合いからボクの弁護を依頼されているらしいことを。そんなことに全く身に覚えのないボクはとても不思議な感じだった。

逮捕されている以上、取り調べが行われるのは当たり前のことだが、どうやらボクの発言からは何かを証明できる、またはボクの犯行を裏付けるための事実を引き出すことができなかったようだ。つまり担当刑事はかなりイライラしていたのである。

しかし取調べが続いて何日かしたある日、突然弁護士の声色が変わった。持って行った刃物の形状やどんな長さだったのかを細かに思い出すように言うのだ。

「確か細身の包丁で、長さは二十センチを超えていたような気がします。柄の色や形は覚えていません。」

「もしかしたら、無罪放免というわけには行きませんが、正当防衛が認められるかもしれませんよ。」

弁護士が言った話がよく解らなかったのだが、その後の取調べで刑事が持ってきた、いわゆる【犯行に使われた凶器】というのが、ボクに見覚えのない包丁だったのである。

その後、ホストクラブの店長やスタッフなどの証言により、ボクの正当防衛が立証されることとなり、少なくとも殺人罪や傷害致死罪などは免れることとなったのである。

 

弁護士から聞いたところの顛末はこうである。

ボクは包丁をもって店内に侵入した。そしてヤツを見つけると、ヤツに向かって一目散に駆け出したが、その間にいた他の店員に包丁を叩き落され、逆に両の腕を羽交い絞めにされてしまった。さらにヤツから何度か殴られ、蹴られているうちに、テーブルに備え付けてあったフォークが零れ落ちていて、それを手に触った弾みでボクが掴んだ。その様子を見たヤツはキッチンに駆け込み、包丁を持ってきて逆にボクを刺そうとした。ヤツも相当狼狽していたに違いない、頭の上まで振りかぶってから振り下ろした包丁は、ボクの目の前をかすめて通過したが、その一撃が空を切った拍子にボクがヤツの両腕を掴んだ。そしてそのまま倒れこむようにもつれ合い、二人が包丁の奪い合いをしている最中に、包丁の切っ先がヤツの胸板を貫いた・・・。ということらしい。

ボクの両腕の傷はその時にできたものだという。さらにヤツがボクに包丁を向けた時には既にボクの手からはフォークが取り上げられていたことも、店長他のスタッフたちから証言されている。

つまりは、状況だけで言うと、何も持たないボクに対して凶器を持ったヤツが襲い、それを防ごうとしている間に起こった行為だと見なされたのである。

しかしながら、店内に侵入したことは明らかに不法侵入であるので、この分については罪を認めざるを得なかった。それでも結果的には店側が被害届を出さなかったため、ボクの不法侵入については不起訴の扱いになったのである。

さらに弁護士から聞いた話によると、ヤツは店でも人気のホストではあったが、性格が横暴なため、店長や他のスタッフからの評判はすこぶる悪かったらしい。そういったことも、ボクに有利な証言を導き出せた要因だったようだ。

この経緯についてはボク自身に記憶がないのだが、第三者の証言が複数出てきたため、警察も起訴は断念したようだ。

しかし、不起訴になったとはいえ、包丁を持って押し入っているのだから、全くの無罪放免というわけにはいかない。店はボクに対しての被害届も訴えも起こしていないので、検察側は書類送検して不起訴という扱いをとった。つまり、身元引受人の保護観察をつけるという条件での釈放だった。そして、その身元引受人として名乗りを上げてくれたのが、『もりや食堂』の親方と女将さんだったのである。

 

逮捕劇から一転釈放となったのは、新しい年も明けた一月の八日頃だった。

町では十日恵比寿の支度よろしく、あちらこちらで彩り賑やかに飾り付けられており、太鼓を叩く音や笛の音が耳に入ってくる。

放免の日、親方と女将さんがやってきた。警察署の玄関では全ての警察官らしい人たちに挨拶をしている。やがて玄関を通り過ぎ、ボクを連れて出た担当官に深々と頭を垂れて挨拶をした。

「大変お世話になりました。」

その直後である。

==バシッイイイイイイッ!==

ボクの顔を見るやいなや、大上段に振りかぶった平手打ちがボクの頬をこれでもかというぐらいにヒットした。

「この、おおバカヤロウ!一体、どれだけ心配したと思ってるんだい!」

解ってはいたが、渾身の一撃だったと見え、ボクの体は小石のように吹き飛んだ。

怒号と平手打ちはほぼ同時だったが、口より手が早いのは女将さんの性格上、仕方のないことである。しかし、女将さんの目は真っ赤に染まっており、目からは大粒の涙がボロボロとこぼれていた。

「なんて大それたことをしでかすんだい。なんでアタシに相談してくれなかったんだい。」

そう言い終ると、誰の目を憚ることなくボクを抱きしめ、おいおいと泣き出した。

「ゴメン、ゴメンよ。ボクもなんだか訳わかんなくて、もう頭に血が上ってしまって、一気に行っちゃったみたいだ。みんなに迷惑かけたね。ゴメンネ。」

親方がそっとボクの肩に手をかけて、優しく話しかける。

「こいつはな、ニュースでキョウちゃんの事件を見た時からずっと無罪を信じてたんだぜ。ワシはキョウちゃんならやったかもしれんな、なんて言ったらえらい剣幕で怒鳴られたもんだ。でもその通りになって良かった。ホントに良かったよ。」

「親方も女将さんもありがとう。この恩は一生かかってでも返すよ。」

涙を拭った女将さんがようやく笑顔になる。

「当たり前だよ。これからはアタシたちの目の見えるところに監禁するんだからね。」

その言葉を聞いて側にいた警察官が女将さんを嗜める。

「監禁はダメですよ。」

「わかってますよ。アタシの目の届くところに置いといて、目を輝かせておくってことですよ。」

「でも女将さんの一発のおかげで完全に目が覚めた気分だよ。色々とありがとう。」

ボクは心から親方夫妻に感謝した。

 

 

さて、今後のボクの去就についてだが、ボクの住んでいたアパートは女将さんらの計らいもあり、ボクが飛び出した当時のままになっていた。

とはいえ、あれからまだ一ヶ月も経過してはいないのである。

まずボクがすべきことは、ヤツのいたホストクラブの店に謝罪と挨拶に行くことであった。店側の意向はどうあれ、ボクが迷惑をかけたことには違いない。少し早い夕方の時間帯。ありきたりの饅頭ではあったが、一応手土産を持って挨拶に出かけた。

対応してくれたのは店長であった。店長というのは四十歳半ばぐらいか、肌の色がやけに黒いお兄さん。パシッと決めたスーツ姿が凛々しい。

「その節は大変ご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。」

ボクは深々と頭を下げた。どんな人か解らなかったし、怖い人ならいきなり殴られるかもぐらいの覚悟はしていた。

「やあ、このたびは災難だったね。ウチの若いのが迷惑かけたそうじゃないか。」

「えっ?」

「事情はアイツの弟分たちから聞いたよ。悪いのはアイツの方じゃないか。あとの二人にも厳重に言い聞かせてあるから、今後もキミには迷惑のかからないようにするよ。まあ、ウチもアイツには手を焼いていたところなんだ。キミがやらなかったらオレがやってたかもな、ははは。いや、それは冗談だけど。」

「あのう、ボクのせいで壊れた物とかありますか。弁償しますので言ってください。」

「別に何もないよ。それよりもあの騒動のおかげで、あれ以降、客の入りが増えてね。世の中は野次馬だらけだよ。逆にキミに感謝してるところさ。売上は三倍になったよ。それよりどうだい、お前さんもそこそこハンサムだし、いっそのことウチで働かないか?」

思わぬ申し出に少し驚いたが、ボク自身がもてた事もなく、男前だとも思ったこともないし、酒を飲む仕事に耐えられそうにもなかったので丁重にお断りしたのだが・・・。

「そうかい、でも考えが変わったらいつでも連絡しておいで。考えてやるから。」

受け取った名刺には、【店長 米倉賢蔵】と書かれてあった。

謝罪さえ済めば、長居は無用である。相手の気が変わらぬうちに、退散した方が良さそうだと思い、再度礼を述べて店を後にした。

最後まで親切な対応をしてくれたのが印象に残った。

次にボクはクビになった会社にも挨拶に行った。元の上司に会うためではなく、先輩のヒデさんに会うためである。

身元引受人は親方夫妻となっているが、ヒデさんも名乗りを上げてくれたそうだと聞いたので、報告とお礼を言いに行ったのである。

見慣れた会社の受付ではあったが、遠慮がちにヒデさんを呼び出してもらう。受付の彼女も知らない仲ではなかったが、やや警戒気味な表情だった。

少し待った後、いつもように陽気な顔で現れるヒデさんがいた。

「よお、元気だったか?って言うのも変かな?まあ、入院してたわけでもないし、あとは気持ち的なもんだけだな。ちょっと外へ出るか。」

そういってヒデさんはボクを会社の外へ連れ出した。

すぐ近くに喫茶店がある。ボクも会社にいた頃たまに利用していた店だ。

ボクたちはコーヒーを注文してから二人がけのシートに座った。

「ヒデさん、この度はご迷惑をおかけしましてすみませんでした。」

「オレには迷惑なんてかかってないぜ。それにしてもお前、大胆なことするよな。昔っから大人しい奴ほど何するかわからんとは言われてはいたけどな。」

「言い訳はしません。でも殺したかったのは事実です。殺意はありました。」

「ばーか。お前見たいなヘナチョコが向かって行っても返り討ちにあうのが普通だよ。今回は運よく命拾いしたけどな。その命、大事に使えよ。」

「でもボクは、今は何も考える気力がありません。」

ヒデさんは、ボクを諭すように話し始める。

「何のために、『もりや食堂』の親方夫婦が身元引受人になったと思う?あの人たちが自分たちでお前の身柄を完全に預ろう、再生させてやろうっていう腹積もりなんだぜ。だからオレはあの人たちにお前を任せることにしたんだ。」

ボクはヒデさんが言ってる意味が理解できなかった。

「お前はあの食堂に就職するんだよ。」

「えっ?」

「親方も女将さんももう年だ。後継者もない。そこでお前を後継者に仕立てようっていう考えなんだよ。これはお前にはもう選択権はないんだ。どうせ仕事なんか探したってすぐにあるわけじゃないし、不起訴になったとはいえ、お前さんの名前はニュースで出ちまったからな。簡単に就職できるとも思えない。現にウチの受付の女の子たちも怪訝な顔をしてただろ?」

そういうことだったのかと思った。後で聞いたところによると、十二月某日新宿のホストクラブで殺傷事件があり、店員が刺され、角田恭介なる容疑者と共に病院に運ばれたという内容の報道が、テレビやラジオで何度か流れたという。

つまりはボクの名前は容疑者として報道されているのである。その後、正当防衛が認められたというニュースまでは流れていないため、世間的に言えばボクは容疑者のままだ。

「だからな、お前さんは色々な意味を踏まえて、親方と女将さんの世話になるしかないんだよ。暫くは、何もかも忘れて一生懸命働け。そして親方と女将さんに恩返しするんだな。

それが一番なんだよ。未来のお前の幸せのためにも。」

「えっ?どういう意味ですか?」

ヒデさんは一瞬はっとした表情になったが、それを打ち消すように言葉を続ける。

「未来のことだからわからんが、お前に店を継いでもらいたいって思ってるようだよ。」

「その話はまだユイがいる時に一度聞いたことがありますけど、半分冗談だって言ってたような気がするんですが。それにあのときはユイとセットだったと思うし。」

ヒデさんは少し難しそうな顔をしたけど、すぐに表情を取り直してボクの肩を叩く。

「とにかく、一度体ごと預けてみろ。オレもちょくちょく様子を見に行ってやるから。」

ヒデさんが知っているということは、以前から親方たちと既に話が済んでいるということである。とはいえ、ボクの去就については何も決まっておらず、親方と女将さんがそうしろと言うのなら是非はない。今のボクには選択権は無いに等しいのだから。

「わかりました。ボクにできる恩返しって、それぐらいしかありませんよね。

ボクはヒデさんに挨拶を済ませると、その足で『もりや食堂』へ向かった。

 

店では既に親方と女将さんが手ぐすねを引いて待っており、少し不安げな表情をしながらヒデさんから何か言われなかったかと尋ねた。

「女将さん、ヒデさんから聞きました。ボクの働き口まで考えてくれていたなんて感激です。ボクには他に選択肢はありません。親方と女将さんに恩返しをさせてもらうだけです。一生懸命働きますので、弟子が出来たと思って厳しく仕込んでください。よろしくお願いします。」

親方も女将さんも涙して喜んでくれた。おおよそボクにこの話をするのもヒデさんであることが決まっていたようだ。

こうしてボクは放免後の去就が決まった。

するとその様子を見ていたある人影が店の奥から現れた。

誰だろうと思って目をこすってみてみると、それはボクのお袋だった。さすがに北関東でもニュースが流れたらしく、栃木の実家でも両親がかなり気を揉んでいたようだ。

お袋には『もりや食堂』のことは話してあった。近所に居心地のいい食堂があって、いつも世話になっていること。親方も女将さんにも懇意にしてもらっていることなど。

その情報を頼りに、ボクの知らない親戚の家に身を寄せてから、ここまで尋ねてきたようだ。しかもこの数日間、毎日のように訪れてボクの帰りを待っていたらしい。

「この馬鹿たれが、色々な人に迷惑をかけよって。お父さんはもうお前のことは勘当すると言うとる。もう帰って来る家はないと思って、親方や女将さんによう奉公しなさい。」

「ゴメンなお袋。親父にも謝っておいてくれ。食堂の親方と女将さんにちゃんと恩返しできるまで、家には帰らんとな。」

女将さんはボクとお袋の間に割って入り、

「お母さん、キョウちゃんのことは任せておいてください。元々ちゃんとしてる人だし、全然問題ないと思ってます。あまり心配せずに待っていてください。お父さんにもそう伝えてあげてください。」

そういうとお袋は親方夫婦に深々と頭を下げた。

「そろそろいいだろ。」

親方が厨房の奥から声をかけた。そしてグツグツと煮えたぎった鍋焼きうどんをボクの目の前に運んでくる。

「コイツをな、お前さんに食わしてやろうと思ってな、ずっと待ってたんだ。これ食って温まって、明日から再スタートだ。」

鍋焼きうどんは『もりや食堂』の自慢の一品である。いい素材をたんまり使っているので、普段気軽に注文するには少々お高いメニューなのだ。だからボクは今まで一度しか食べたことがなかった。

今思い出したが、その一度とは『ムーンライトセブン』で若葉が卒業してからしばらくして、萌愛を初めて指名した次の日だった。その夜はヒデさんも一緒だった。若葉がいなくなって寂しく思っていた矢先に触れた萌愛の笑顔が印象的だった。

何か予感があったのかもしれない。何だか急に鍋焼きうどんを食べたくなったのを覚えている。あの時は、まさかこんな展開になるなんて、これっぽっちも思っていなかったけど。

親方はボクの分だけでなく、お袋の分まで用意してくれており、久しぶりにお袋と食事をすることになったのである。

ボクの顔を見て安心したのか、お袋はボクの部屋にも寄らずに、その足で栃木へと帰って行った。「少し痩せたかな。」と思える後ろ姿が印象に残った。

 

この日からボクと『もりや食堂』との戦いの日々が始まるのである。

その晩、さらに懐かしくもある食堂の肉じゃが定食を食べ、店の中と厨房の様子をしっかりと目に焼き付ける。

そうしているうちに、仕事を早めに終えたヒデさんが駆けつけてくれた。女将さんもどうやらヒデさんが来るのを待っていたようだった。

「こんばんわ。女将さん、その後はどうでした?」

「いらっしゃい。流石はヒデさんだね。あんたが書いた筋書き通りに事が運んでいるよ。」

ボクが二人の会話に目をパチクリしながら聞いていると、女将さんがボクの方を振り向いて話しかける。

「今日の演出はみんなヒデさんのシナリオだよ。キョウちゃんはホントにいい先輩を持ってるねえ。うらやましいよ。」

「お前はどう思ってるか知らないが、オレはお前のことを本当の弟だと思ってる。オレには姉さんしかいないからな。ずっと前から弟が欲しかったんだ。お前は見事にその役割を果たしてくれているよ。楽しいことも手が焼けることもな。」

ボクは黙って感謝するしかなかった。何かを話そうとすると、泣いてしまいそうだったからである。

「女将さん、今日まではコイツも一緒に飲んでいいんでしょ?今から恭介の激励会をするから、ビールとトンカツとマグロの刺身をよろしく。女将さんも一緒に飲もうよ。」

「ありがとね。いつまでもいい兄ちゃんでいてやっておくれよ。」

そういうと女将さんは奥からビールとコップ、それから大盛りの漬物を運んできて、以前の時のように宴会が始まった。

親方も奥の厨房でトンカツを揚げ、マグロを刻んで大皿に持って出てくると、三人の輪の中に入って来る。

そこへ、客が入ってきたからたまらない。

「いらっしゃい、ちょっと乾杯が済むまで待ってよ。」

親方はグラスのビールを飲み干して、またぞろ厨房へと逆戻りである。女将さんも客の注文を取りに席を立つ。

そこへヒデさんがその機会を待っていたかのようにボクに耳打ちしてきた。

「ところで、ホストクラブの店長さんって、どんな人だった?」

何を聞くのかと思ったら、突然予想外のことを尋ねてきた。

「強面でしたけど、いい人でしたよ。ボクに店に来ないかって言ってくれるぐらい。」

「おまえ、そっちのほうが稼ぎは良かったんじゃねえか。」

「たぶん冗談ですよ。ボクなんかが勤まる世界じゃないです。それに、ボクはそんなところで一人前になっても、女将さんの恩返しにはならないと思います。」

「正解だな。お前、やっと元通りのキョウスケに戻ったな。そんな感じがするよ。しばらくは、余計なことは忘れて、食堂の仕事を一心不乱に打ち込むことだ。」

「そうですね。元々台所仕事は嫌いじゃないですから、結構頑張れると思います。ヒデさんもたまには様子を見に来てくださいね。」

「ああ来るとも。オレも身元引受人の一人だからな。」

「ええ?そうなんですか?」

「まあな、みたいなモンだ。」

ほぼヒデさんの筋書き通りに事が運んだためか、この日のヒデさんは終始機嫌が良かった。帰り際、意味深なセリフを残して去って行ったけど。

「お前さんがちゃんと責任を果たせるようになったら、女将さんから連絡が来ることになっている。その時まで絶対に気を抜くなよ。」

「何のことですか?」

「じゃあな。」

そう言って颯爽と店を後にしたヒデさんは、それから数日置きにボクの様子を見に来るようになるのだった。

 

店の片づけを手伝って、明日から本格的に弟子入りすることを約束して、ようやくアパートへ帰ってきた。

静かな伽藍堂の空間に少なからず寂しさを覚える。

ユイがいた頃の痕跡はもうない。お揃いのマグカップも箸も茶碗も。

コンクールで入賞したパネルさえ、そこにはなかった。誰かが処分したのだろうか。ボクがユイのことを思い出さないように。これも親しい人の配慮だと思うと、怒る気にはなれなかった。

ボクは引き出しを開けてカメラを取り出していた。

データはパソコンの中に入っている。しかし、今は過去を振り返ることはよそう。そう言い聞かせて再びカメラをそっと引き出しの中にしまい込んだ。

新しい道のりへの夜は更けて行く。明日からは新しい朝日が昇る。

自分を取り戻すために費やす時間と日々が明日から始まるのである。

今宵は無駄な夜更かしをせず、静かに眠ろう。

ボクの慌しかった放免一日目はこうして終わったのである。

 

 

 

#新しい生活を迎える朝

 

翌日のボクは朝の五時には起床して、身支度をして部屋を出た。食堂の前では親方が腕を組んで待っていた。

「おはようございます。今日からお世話になります。よろしくお願いします。」

「キョウちゃん、堅苦しい挨拶はいらねえよ。他人行儀にすることもないんだよ。今までどおり、気軽に話しかけておくれ。よし、とりあえずついて来い。」

そういって親方は軽トラックに乗り込む。行き先は朝市だ。

まずは魚を仕入れる。親方馴染みの魚屋に新しい弟子として紹介されたボクは、魚の種類や鮮度の見極め方などを教えてもらう。いわゆる目利きというヤツだ。ここでは魚の他に貝やエビなども買い付ける。値段交渉やいい出物なんかを聞き出すのも長い付き合いだからこそなせる業だ。

次に野菜市場へ行く。特に変わったものを買い付けることはないが、その時々の相場やどこの産地が良いとか悪いとかの情報は日によって違うようである。

肉と玉子は指定店があるみたいで、三日おきに決まった量が搬入される。よほどでない限りその量は変わらない。

買い付けが終わって店に帰って来るのが七時半ごろ。女将さんが朝餉の支度をして待っていてくれる。朝から晩まで賄い付きの仕事だ。時間は長く拘束されるが、今のボクには自由時間など必要がない。晩御飯まで食べさせてもらって、あとは風呂に入ってゆっくり寝るだけなのである。

新しい生活には新鮮味があった。躓いた過去を忘れるためにも、その新鮮さを感じることは重要だった。過去には戻れない。後ろを向いていても仕方がない。自分が学生だった頃の事や新しい趣味などを始めだした頃の自分を思い出しながら、とりあえずは前を向いて仕事に臨んだ。

親方にも女将さんには大いに感謝している。ボクだけでなく、田舎から尋ねてきたお袋の面倒まで見てくれたのだから。

ボクにはこの店で親方の跡を継ぐくらいの想いで働くしか選択肢は残されていないだ。それが自分の使命であるかのように言い聞かせていた。

 

そうした毎日が続いたある日、ふとしたことに気づいた。

店に来る客も今までと同じ馴染みの客だ。それなのに、みんな一様にユイのことに関して誰も触れようとはしない。去年まではあれほど盛り上がっていたのに。

恐らくは、女将さんあたりが口止めをしているのだろう。ボクに余計なことを思い出させないように。そう思うと、皆の心遣いがありがたかった。

しかし、ボクは心のどこかでまだ諦めてはいなかった。ユイの存在自身が消えてなくなってしまったわけではない。どこかにいるはずなのである。ただ、今のボクには彼女の行方を捜す手段も見当さえも持ち合わせていなかったし、自分の時間を自由に使えるなどという勝手が許される時期ではなかった。

ただ愛しいと思う気持ちだけが、ボクの心の奥底にひっそりと眠っていたのである。

だからこそ、その想いがあるからこそ、ボクは前を向いて歩けるのである。

ヒデさんは頻繁に来店してくれる。

「おう元気か?」

と声をかけてくれては晩めしを食べて帰ってくれる。

ただし、決してアジフライ定食を注文したりはしない。ユイがいつも好んで食べていた定食だからか、はたまたあまり好きではないのか。しかし、それは違っていたのだ。

しばらくしてから、店のメニューからアジフライ定食がなくなっていることに気づいた。

不思議には思ったが、親方や女将さんに尋ねることもしなかった。暗黙のうちに「忘れろ」とでも言っているつもりなのだろうか。だとすれば、それは無理からぬ話である。だからこそボクはその話題を切り出せずにいたのである。

『もりや食堂』に就職してから二週間ほどたったある日、親方に厨房に入るように要請される。それまでは野菜の皮むきや皿洗い、それに接客が主な仕事だったが、この日から親方の調理を手伝うこととなった。

「キョウちゃん、お前さんは昔から器用なヤツだったから、きっとすぐに覚えられる。ワシの言うとおりに作っていれば、三月もすりゃワシとおんなじものが作れるようになる。そしたらその後はお前さんの思うとおりのオリジナルに変えていけばいい。」

とは言われてみたものの、『もりや食堂』はボクの店ではない。そんな好き勝手なことができるわけもなく、ボクは親方の味とテクニックを教えてもらう。

親方の手際のよさ、指先の繊細さなど、厨房の外では発見できなかった職人らしい仕事ぶりを目の当たりに出来た。ボクはそれこそ何度も失敗しながら親方の味を継承していくのである。

もちろんヒデさんが味見役に抜擢されていることはいうまでもない。ヒデさんのOKが出て初めて他の客にも提供できるようになるのであるが、手厳しいヒデさんはなかなかOKを出してはくれない。

「キョウスケ、最近はなかなか様になってきたようだな。煮付けも炒め物も旨いぜ。しかし、親方に追いつくにはまだまだだな。それに刺身はどうする。長い包丁を持たなきゃいかんが、大丈夫か?」

確かに切っ先の長い包丁には苦い思い出がある。しかし、そんなことがトラウマになるほどボクの神経は繊細ではなかったとみえる。

「いつまでも悪いイメージの過去にこだわっていても仕方ないですからね。」

今や刃物がどうのこうのではなく、料理すること自体が面白い。今日は親方が仕入れてきたマグロとイカとハマチに包丁を入れてみた。女将さんもかなり心配してくれたようだが、ボクの包丁捌きは親方のお眼鏡にはかなったようだ。

親方に後継者ができたという噂が広がり、昔なじみの常連客がボクの顔を見るために、頻繁に店に訪れるようになった。おかげで店はそこそこの繁盛振りとなった。

 

『もりや食堂』の厨房に入ってから二ヶ月程が経過したある日、親方が新メニューへの挑戦権というチャンスをくれた。あまり突拍子もない発想は避けて、無難で万人向けのメニューを考えてみる。新しい材料を購入しないことが条件である。

新しいことを考えるのは嫌いではない。調理場でも接客をしていても自分の部屋に帰っても、新しいメニューのことを考えていた。

こういうときには自分が食べたいものを中心に組み立てていくのが普通かと想う。あとは一人よがりにならない程度に考える。部屋のキッチンではいくつか試作品を作ってみた。

そしてようやく完成したものを店で作ってみることになる。

昼の接客の時間が落ち着いた頃、調理場に立ち、包丁を叩き、コンロに火を入れた。

まず手始めの審査員は親方と女将さんである。

二人分を十分以内に手早く作れるか。それも必須条件である。

「はい、おまちどう。」

ボクが考えた新メニュー。細かく刻んだ野菜とひき肉を甘しょっぱいタレで炒めて、さらには半熟に仕上げた目玉焼きを二つ、温かいご飯に乗せてみた。某チェーン店のハンバーグプレートにヒントを得た一品だった。

「これは箸で食うのか?」

「一応丼ですから。でもスプーンでもいいじゃないですか。子供にはミニサイズを用意してもいいですし、大人向けには辛口もできます。」

親方と女将さんはしばらく考えていたようだが、二人で目を合わせてうなずいてから答えをくれた。

「いいよ。ヒデさんがOK出してくれるなら、明日からでもウチの新メニューにしよう。名前もヒデさんに決めてもらおう。」

親方はニッコリと微笑んでボクの肩を叩いた。女将さんも喜んでくれた。

次の日から調理の分担が増えていった。親方が進んでボクに作らせた。ようやく慣れてきた程度のボクに任せてくれる心意気が嬉しかった。もちろんたまに失敗もしたが、親方は笑って許してくれる。少し甘やかせ過ぎかと思うぐらいに。

それからさらに何日か経った夜、ボクは親方にフライを作りたいと申し出た。

すると親方は女将さんと目を合わせて、何かの合図があった後ボクにこう言った。

「フライはもうしばらくの間ワシが作る。お前はもう少し待ってろ。」

フライの定食を扱わないのならわかるが、いつも通りメニューには鮭フライ定食やワカサギフライ定食、さらにはトンカツ定食などもあり、それらの注文に限っては親方が作り、ボクには手伝わせてくれなかった。何か意味があるのだろうかと思ったが、親方の言う「待ってろ」の意味がわからなかった。ボクが見る限り、そんなに難しいメニューでもなさそうだし、特にフライの定食がここの看板メニューだった記憶もないのだが・・・・・。

ボクがこの店で親方の弟子になった日から三ヶ月が経過した時、その理由が明らかになるのである。

 

 

つづく