昨日、時子さんのトキを観劇した。

/********そみ  ( ← 猫が打ち込んだ。)

今日はもう大千穐楽なので、そろそろネタバレOKかと思うが、
動画配信待ちのかたも大勢いらっしゃるかと思うので、
このあとネタバレを含んだ感想を書くということだけ
先にお伝えしておきたい。

とにもかくにも。
ようやく大阪に拡樹くんが戻ってきた。
拡樹くんが、というより
拡樹くんの演じている舞台が、である。
リトショが東京でのわずか一週間のみに終わり、
取っていた名古屋・大阪のチケットが
すべてただの紙切れとなって以降、
アルキメデスも中止になり、
拡樹くんを見れたのは、配信やテレビや映画のみ。
もちろん、それだけでも随分癒されたし、
拡樹くんが元気でやっていてくれるだけで
今後に望みをつなげられたわけだけれど、
それでもやはりナマの舞台は恋しくて、
八月に拡樹くん不在の『しにつか』の舞台を観劇して、
ああ、やっぱりわたし、ナマの舞台好きだ、
って再認識し、そうなると更に、
ここに拡樹くんがいてくれたら、もっと・・・・・・、と
思わずにはいられなかった。
そして、ようやく。
拡樹くんのいる舞台が、大阪に帰ってきた。
当然見れると思っていたリトショから五か月。
やっと。
やっと、帰ってきた。
昨年、いんぷろを見に行って以来。
実に、11ケ月ぶりのナマ拡樹くんである。

わたしはもういい齢なので、
実を言うとそろそろ閉経寸前である。
今年に入って、その兆しが著しい。
が、何かことあるごとに、
ホルモンバランスなどが刺激されるらしく、
七月終盤の、大演練に関する一連のお知らせで
一喜一憂した時や、
今回の、時子さんの舞台直前やらに、
思い出したように月の使者がやってくるといった塩梅だ。
東京公演の終盤は、とにかくソワソワして、
お願いだから無事に終わって大阪へバトンを、と願い、
東京での楽を終えて大阪までの休演期間も、
どうぞ何事もありませんように、と
神社仏閣にもお参りしまくったほどだ。
リトショでのトラウマが大きすぎて、
とにかく大阪の幕が上がるまで、安心できなかった。
月の障りの前でもあったので、ますます気持ちが落ち着かない。
そして迎えた当日、朝からなんだか胸もドキドキするし、
いざ家を出たらお腹まで痛くなる始末。
よく考えたら、昼ごはんを食べ忘れていたので、
そのせいで胃の具合がおかしかったのかもしれない。
テンパっていて、梅田駅からハービス方面への地下通路を
なかなか探し出せずにウロウロしたり、
劇場に着いてからも入場列やグッズ引き換え列など
間違えてばかりでオロオロ。
ようやく席に着いたときには、脱力してしまって
お腹の痛みもどこかへいってしまっていたw

座席をお知らせしてあったので、
フォロワーさんお二人がご挨拶に来てくださり、
時節柄あまり騒がしく会話するわけにもいかないが
ささやかながら言葉をかわすうち、
ああ、今から拡樹くんの舞台を見るんだ・・・・と
ようやく実感がわいてきた。

そして。

とうとう、舞台の幕が上がる(幕はないけど)。

チケット発券時、一階後方部の端と分かったときには
正直気持ちが落ち込んだりもしたものだが、
実際には思ったほど悪い席ではなかった。
大がかりな舞台装置や華やかな衣装と派手なアクション、
そんな舞台も大好きだが、こういうシンプルな芝居も
実は結構好きである。

高橋由美子さんが、実にスムーズに
観客を芝居の世界に誘導してくれて、
拡樹くんの姿が見える前から、そこに翔真の存在感を
しっかりと感じさせてくれたので、
ようやく上手から翔真が現れたときにはもう
すっかり時子さんと時間を共有している気分だった。

久しぶりに見る拡樹くんは、やっぱり綺麗で、
可愛かった。
中身は拡樹くんだけれど、
翔真という、初めて見る青年の顔をしてる。
この子は、どういう子なんだろう、と
忽ち夢中にさせられた。
今回、ついついネタバレ記事を見たりしていたので
いくつかのシーンは既に知っていたし、
筋書きについては自分の中である程度の想像もあった。
とはいえ、あまり先入観は持ちたくなかったので
それぞれのキャラクターに関しては
あまり枠にとらわれないようにして観劇に臨んだ。
だから、わたしにとっては時子さんとは逆に
時子さんと翔真の出会いの場面から、
あの世界の中での時計が動き始めたと言っていい。

「ぶっちゃけて」言うと。
わたしは時子さんというキャラクターを
あまり好きにはなれない。
時子さんの気持ちは同世代としてわからなくはない。
(もちろん高橋由美子さんのほうが
わたしよりは少しお若いのだが、
自分の周りで二十歳前後の息子さんを持つ
同世代は多いので、まあ大雑把にくくって、である)
それでも、劇終盤で柏木が言うように、
ウイルスは翔真ではなく時子さんだったのだと、
わたしもそう思う。
自分が拡樹くんファンだから、というのは抜きにしても、
時子さんではなく翔真に肩入れしてしまうのは、
わたしが「母親」というものになったことがないせいもある。
「母親」の持っていた世界、「母親」の失ったもの、
それらを初めから持っていないので、
失ったものの大きさが、わたしにはピンと来ない。

どこかのメディアの記事で、
一番最初にこの芝居のビジュアルを一目見たとき、
時子さん以外がすべて白い衣装であることに
当然意味があるのだろうと思った。
実際、時子さんが離婚して登喜と離れてから、
時子さんの周りは白一色だ。
広場の時計や小便小僧は時を刻むのをやめ、
時子さんの見る世界は無色になってしまった。
時子さんという、自分自身だけがリアルで
ほかはすべて虚ろな世界。
それだけ、時子さんの失ったものは大きかったんだろう。

登喜という息子。
時子さんにとって、小学校高学年になってもまだ幼く、
母親がいてやらなければ、と思わせる息子。
母親がそう思いたいから、登喜はそんな子供の役割を
素直に演じていてくれたのかもしれない。
時子さんが、登喜が喜んでくれるなら、と
繰り返していた他愛もない遊びも、
登喜のほうが、母親が喜んでくれるなら、と
そう思っていてくれたのかもしれない。
登喜は、空気を読む子であったろうし、
両親の不仲は当然わかっていて、
だから父母それぞれの居心地がいいように
それぞれが望む登喜を演じていたのではないか。
そこまで明確に意図していたわけではなくても、
自然とそうなっていたのではないかという気がする。
登喜が絵を描くときには
時子さんが構図や背景の色をアドバイスし、
登喜が工作するときには時子さんがそれを手伝い、
登喜が読書感想文を書く時には
時子さんも同じ本を読む。
どうしても、登喜の作るものには
時子さんの色が混じる。
それを排除できない優しさが、登喜にはある。
その優しさを、時子さんは幼さと勘違いして、
わたしがついていなければと思う。
それなのに、である。
離婚が成立したとき、
登喜は父親についていった。
時子さんの驚きは、察するに余りある。
察しはするけど、わたしのなかでは
ほら、という意地の悪い思いもある。
自分だけがいい気になって、
いい母親ぶって、
結果がそれじゃん、という、
ごく小さな黒い気持ちが自分のどこかにある。
そんな気持ちが、田辺さんの悪意に少しシンクロする。
時子さんが、自分は鬱陶しい母親だったのか、
うざかったのか、と自問するとき、
まあそうなんじゃないの?と苦笑いしてしまう自分がいる。
まあ、結論から言うと、登喜は母親のことを
べつだん鬱陶しく思っていたわけでもなかったようだが。

共依存、という言葉がある。
代理ミュンヒハウゼン症候群なども時々も話題になるが
母親が子供にとって自分はなくてはならない存在だと
思い込むことで自己肯定感を高めるというのは
普通にあることなんだろうなと思う。
実際、母親の育児というのは、とても大変で、
また偉大なことであると、子を持たないわたしは思っていて、
だから、そうした大事業にプライドを持つのは当たり前で
自分ほどこの子のことをわかっている者はいないと
そう自負するのも、ある意味必要なことだと思う。
わたしは子供にかかわる仕事を十数年していて、
母親の前で見せる子供の顔と、
母親の前以外で見せる子供の顔のギャップは
大いに見てきているし、
それ以外でもきっと色んな顔を持っているんだろうとは思う。
それは別に顔色をうかがうとか、
八方美人とか、多重人格とか、そういうことではなくて、
正常な社会性の発達なんだろうと思うし、
実際そのいずれもを伸ばす可能性に満ちてるんだろうと思う。
でも、時子さんは、自分の前で見せる登喜の顔を
登喜のすべてだと信じ込んで、
そんな登喜を守ってやりたい、伸ばしてやりたいと
深い愛情をもって思っている。
子にとっても母親に肯定されるほど幸せなことはないから
時子さんの前で時子さんがこうと信じる登喜の顔をして見せるのは
案外苦痛でもなんでもなく、それもまた本当の登喜なんだろう。
流行りのゲームが苦手で、いつまでも母親とかくれんぼをする登喜、
絵を描くのがとても上手で、手先の器用さがゲームではなく
絵に生かされたことを時子さんはとても満足している。
それが時子さんと登喜の世界。
ほかの世界での登喜を、時子さんはあまり見ようとしていない気がする。
決して、高望みをしているわけではない、
分不相応な理想を思い描いているわけでもない、
ごくありきたりの、小さな幸せ、
ごく普通の理想の夫と、ごく普通の理想の息子、
ごく普通の幸せな自分、そんなささやかな理想の中で、
時子さんは生きていたかっただけかもしれない。
夫を信じていられる間は、それで充分幸せだったんだろうし、
たとえ夫と険悪になっても、お腹を痛めて生んだ登喜が
自分のほうを向いてくれている間は、
時子さんは自己肯定感を持ち続けていられたと思う。
登喜が父親を選ぶまでは、だ。

そんな時に、時子さんと出会ってしまった翔真は
幸運でもあり、不運でもあったと思う。


長くなってきたので、いったん切りますwwww

(つづく)