私の気付きをブログに書いててどうにかなるわけじゃないんだけど、
言葉を額面通りに受け取らず
違った視点で見れたら
自分に対しても相手に対しても
また受け取り方が違うんじゃないかなぁと思ってブログに書きました。
あとは私の頭の整理整頓のため。
『死にたい』ってよく事件や問題を起こす人が言ってるイメージがあります。
私も中学生、高校生あたりはずっとのこの言葉に頭のなかを支配されてました。
そして、
犯罪(無賃乗車したり万引きしたり)や
問題(喧嘩、いじめ、嫌がらせ)
とお友達でした…。
それは社会人になって自分から逃げる道がなくなって(色々とバイトの面接すら落ちまくって後がない状況だったので)
自分自身に向き合うことで
問題が表面化してやっと
対人関係が上手く行かない自分、
仕事で覚えの悪い自分、
誰の役にも立てないんじゃないかという不安だらけの自分
が発端となっていたことに気付きました。
その時に、自分自身が変わっていくなかで
『人の役に立たなくても自分のできる限りのことをしよう』とか、
『仕事の覚えが悪くても今日はこれが出来た』とか、
『対人関係が苦手で相手にどう思われるかよりも
自分が相手をどう思うかを大事にするために、
自分から挨拶を気持ちよくしよう』とか
そんな、ちょっとしたルーティンの工夫が出来るようになっていく中で
『死にたい』と思っていたのは
実は『変わりたい』だったんだなと思うようになりました。
自分のことを
『出来ない、生きてて価値がない』と思っていた当時の私が望んでいたのは
「生命の死」じゃなくて「社会的な立場の死」でした。
『出来ない、生きてて価値がない』私が
『簡単なことから難しいことが出来るようになった』
『生きてて価値がないと思って傍若無人に振る舞っていた自分が、相手のためを想って行動することが出来るようになった』
そんな変化が私の心を少しずつ癒してくれました。
『ダメな自分』がまかり通っていた環境から
どうしようもなく落ちて落ちて
『ダメな自分』が通用しない環境になったからこそ、私は変われたのだけど
たまたまの出会いが思っても見ない方向に変えてくれました。
本当に人との出会い、理想的な人物への出会いは感謝しかないです。
《迷惑》ばかりを強調する人が多い中、
気長に付き合ってくれた先輩方、
時には優しく時には厳しく、直接的なやり方ばかりが教え方じゃないことを教えてくれた〈はっしー〉(あだ名)、
人を裏切ってばかりの私にも『信じる』という意思を貫いてくれた〈はっしー〉
「人の振り見て我が振り直せ」
「人は自分の写し鏡」(人の嫌なところが見えるんじゃなくて、自分の嫌なところが見えてるだけ)
「自分勝手ばかり言ってないでしっかりして!」
と、激励してくれた町田さん。
おかげさまで、
『ダメな自分』は死んで
生まれ変わって『前向きな自分』になれた気がします。
本当に『生命の死』を選ばなくて良かった。
美味しいものも食べれるし、
楽しいことも沢山ある。
現実逃避もたまにはするけど、
現実を見て綺麗な(自分の満足する、程程ですが掃除は行き届いてる✨)家で過ごせてるし、
自分で自分のことをコントロールできるから周りにも流されない。
優越感や劣等感からも抜け出したから比較もしないから自分を認めやすくなった。
そんな経験から『死にたい』は
『今の自分から変わりたい』ってことじゃないかなと思っています。
犯罪や問題ばかりの自分じゃなくて、
人を大切にできて、(自分のことももっと大切にできて)
周りとの信頼関係が築けて
安心できる自分だったら
「死ぬ必要はない」
って感じるはず。
現に私は今は死ぬ必要性を感じないし
信頼関係を作るために努力中。
自分自身を律してやりたくないこともやるし、
生活ルーティンを整えて生活リズムよく過ごしているし、
たまにはダラダラすることもあるけど即断即決即実行ですぐ動くことにしてるし、
人から頼まれたことは気分で断らないようにしているし、(時間や制約や家族を優先したいときは断るけど)
自分の違和感や矛盾は相手に伝える努力をするし、
相手に無理強いはしないし、
相手が何を思ってそうしようとしてるのか話を聞くし、
色々と自分に向き合えば
自分が相手にして欲しいことって
押し付けじゃなくて
《自分からまず相手に何をするか》考えることが出来るなと思います。
ずっと『死にたい』って思ってたときは
〈相手が何をしてくれるか〉が大事だったな…。
『死にたい』なら
その前に少しくらい
相手に何ができるか考えて実行して見てもいいかも。
相手が喜ぶことよりも、
【相手のことを考えて実行できた自分】が
私は何よりも好きですよ
そして、そういうことを家族がしてたら
誇らしい気持ちになれますね🍀
犯罪や問題を起こすのは
自分勝手ばかりだけど
相手のことを考えて動けたらちょっとは人間の幸せに近づくなと思ってます。