虐待になってみて
幼少期へのフラッシュバックになったからこそ
わかる言葉が3つ出来ました。
「死にたい」
「お金持ちになりたい」
「バカ(にする)」
この言葉って額面通りに受けとると私の場合は
「死にたい」
って急に言われたら困るし、
「お金持ちになりたい!」
って言われたら『あーそーですか?』って呆れられたり他人事に感じるし、
「バカ(にされる)」と
『私はバカじゃない!』
『私のことをもっと大切にして!』って怒りたくなってました。
そして、人のことなんだか私のことなんだかぐちゃぐちゃで
人のことなのに私のことのように怒ってるし、
私のことなのに他人事だったり
よくわからない世界にずっと入り浸ってました。
で、その混沌から抜け出すタイミングで
フッと感じたのが
言葉の本当の意味って別にあるんじゃないの?
ということでした。
「死にたい」⇔「変わりたい」
「お金持ちになりたい」⇔「認められたい」
「バカ(にする)」⇔「安心したい」
幼稚園年長の七夕(去年ですね)に
友達の子供(男の子)が「大金持ちになりたい」と書いていてうちの子(次女)が「お金持ちになりたい」とお願いを書いてました。
私も『お金持ちになりたい』と夢を見たタイプ
でもね、その友人のお子さんの描く絵は
目が“✕✕”になっていて
本当にお金を稼ぐ能力のある人って自信に満ち溢れてるし稼げる稼げないなんて気にしてないんですよね。
“稼げて当たり前”と思って信じてるので、自分の出来ることを念入りにやって自信に満ち溢れた状態なんだけど、
友人のお子さんは違うなと感じて
それがずっと気になってました。
それがなんでか繋がったのはお正月の駒回しを見学してたとき。
好きなことは熱中して自然と出来るようになる友人の子供が他の駒回しがまだ出来ない子に対して
「僕はまだ50回しか回してないよ~」(悪気は一切なく)
と言っていて、出来ない子のやる気がしぼんでいく様を目の当たりにしました。
帰りもたまたま友人と子供たちと帰ったのですが
「○○くん、そんなので満足してちゃダメ」とか
「次はもっと△△しよ」とか
現状の出来ていることを全く認めない友人(こちらも全く悪気はない)
親が
現状の出来ていることを全く認めない
テストも90点取ったら、なんで10点出来てないの?とか出来ないほうに目を向けるタイプか?
親自身が
親からの期待のハードルが高かったのか、
自分の親にされたように“認めないことがバネになる”と信じているタイプなのかなと感じました。
私は「当たり前に出来ることが凄いことだよ」と友人に声かけましたが。
当たり前の基準が高いから洗練されることもあるので、それも一つの個性になっていきそうな気もします^ ^
私自身も、お金を沢山もらえるということは
人に認めてもらえるからお金をもらえると思っていたので
お金持ちになりたかった。
それに加えて、
お金を持っているように見える人って憧れや嫉妬や人の視線を集める何かがあると思っていたので
それを『認められる』ことと勘違いしてました。
そんな他人のどうでもいい承認よりも
本当は親や親しい人から
自分の存在を認めて欲しかった。
私が居るから嬉しい
私が居るから楽しい
私が居るから安心する
そんな風に関わって欲しかった。
まぁ、私の親は気まぐれで気分や機嫌をばか正直にぶつけてくる人だったので(私のなかで良く言って“素直”ということにしてるのですが)
私は自分の存在を勘違いしていくようになりました。
私は何かしないと価値がないし、
私が居るから両親が喧嘩する
私が居るから母は幸せになれない…と。
そんなんで、自分のことを認めることなんか出来るわけないですよね。
親が認めてくれないからといって
自分まで自分を認めなくなってしまいました。
でも、本当は親はどうでも良かった。
自分で自分が認められたら
親はそう思ってるかもしれないけど
(そう思ってるかも?と思うなら本当にそうなのか聞けば早いけどね)
私は自分だから
楽しいし、嬉しいし、安心することを見つけられる。
私は何もなくても存在していい
そうやって自分のことを認めることが出来るようになりました。
誰かに依存して、許可を待ってるのが問題で、
《自分で決めて自分で許可していいんだ!》と思えたことから自分のことを認めることが出来ました。
そんな経験から
「お金持ちになりたい」気持ちは
『あ~、人から認められたいんだろうな』と思うようになりました。
確かにお金が欲しいときには
働く時間を増やしたり、
職種を絞って仕事を探したり、
具体的な行動をしてました。
「お金持ちになりたい(人に認めて欲しい)」と
「お金が欲しい(お金を稼ごう!)」は
似てるけど全く別物でした。