虐待というほどでもないし

そんな大したこと?と思われるかも知れないけど

雨の日に

私が《大切だ》と思うことがありました。


雨の日のお迎え、

幼稚園~駐車場まで


お友だちは長靴で傘を持って嬉しそうに帰る。


もちろん、水溜まりがあったらので

飛び込む。


私「いいね~!楽しそうだね!」

ママさん「服汚れるし、お友だちが居るのに、やめてー。」


再度、水溜まり。


ママさん「もう!服が汚れるよー。」




駐車場に着いて


傘を投げる男子。


(投げたというかウロウロしてたら手から離れて)

水溜まりにジャボン。



ママさん「大事にしないなら捨てるよー!」←ココ!!

「汚さないように扱ってー」



私もちょっと前は強制したくて

脅しをつかってたけど



大事にしないなら捨てるって、

『捨てたら困るでしょ?やりなさい。』


っていう親の都合が隠れているので

私は今は使わないセリフです。



本当に大事にして欲しいなら


「傘濡れちゃったね。帰ったら洗おうか」とか

「落ちたらすぐに拾ってあげようね」とか


物を大事に扱うイメージを広げるチャンスなのに

勿体ない。



人間、イメージ出来ることは行動出来るけど


知らないこと、

教えてもらってないことは


行動は出来ない。




うちの子供には1~2歳の頃に

物の扱い方一つも丁寧に教えることにしていました。



イメージ出来ることは行動出来るけど

知らないこと、

教えてもらってないことは

行動は出来ないから。



「投げずに置くんだよ」

「おもちゃを片付けるときには優しく片付けてあげたら、おもちゃを大切に出来るよ」

「そっと置いてあげてね」


こういう声かけをしていました。



それで、よく周りのお母さんからは

「○○ちゃんは優しいね」とか

「どうやったら物を大切に扱うの?」

とか聞かれてたけど、


優しくする行動を教えてるから出来るだけで

教えてないか、知らないから出来ないだけで



本当にちょっとした


知ってるか、知らないかの差でしかないけど

出来る行動には雲泥の差で

大切にする/大切にしないと

現れてくるので


強制ばかりしていると

折角の子供の学びのチャンスを奪うので

今はしません。



虐待になった時は

行動を教えることよりも

自分の都合、親の都合優先だったので


全く違う次元に居ましたけどね。



虐待か虐待じゃないかは

解釈の仕方や出来事の捉え方も全然違うし、

子育ての考え方も全然違うし、

大雑把か繊細かも全然違うし、



コントロールや強制をすると、

自分で考えて選ぶということは出来ないけど、


自分で考えて選べる子になって欲しいなら

違う行動を親が選ばなくてどうするんだろ?



と、今の私は思います。

それは虐待を抜けたから次に進めてきただけで

最初から出来てないですけどね。


ようやく、自分自身が行動を選べるようになってきました。