日常のちょっとした瞬間を切り取る。一般的には写真だ。絵画も手段として好ましい。自由度も高い。


それを立体で試みる。

今回、商品を造るうちに、何故かそんな流れになった。

それをやろうと思ってやったわけではなく、結果的にそうなった。造ってみて初めて気付いた。

これはおもしろいかもしれない。

純粋な作品として成り立つ。ちゃんとテーマがあり、多面的多義的で、観る人のイメージが膨らむ。ひとつの装置として完結するもの。

かれこれ10年以上、美術、芸術といわれる場所になんとなくいてなんとなくなにかを造っていた自分にとって、これはかなり珍しい事象。韓国とベトナムで展示したインスタレーションに近い作品を除けば初めてかもしれない。ようやく、芸術のまねごとから脱却できるのかもしれない。過去のものを否定するつもりはないが。当時は過程を重視してストイックなまでに何かをあらわそうとしていた。消化はおろか咀嚼もできていない何か。できあがったものはただの結果で、ある意味パフォーマンスだったのかもしれない。


「休憩、休息」をテーマに日常空間を切り取る。そこにある何か。人生であったり、人間模様であったり。観る人によって感じるものはそれぞれ違う。

今日パートナーに見せた。「これはなぁに?これは?ふぅん。」

以上。

…。まぁ美術に触れる機会の少ない大方の一般人のリアクションに逆に安心すらした。


2次元以下しか認識できない3次元人間が、さらに多次元の事象に向かい合い、ナタを振る。形として残るのは、その切り口だけ。あとはせいぜい投射された影。その切り口がいかに斬新かというところでアーティストは闘っているといえる。自分はそれほどスパッと絶妙な角度では切れない。が、金太郎飴にならぬよう、せめて、多面体であるんだという意識をどこかに織り交ぜることで、観る人の見地を広げることができればと思う。ずばりそのものではなく、何かを想起させる、でもそこだけに囚われないよう、そのさじ加減が作家の腕の見せ所といえるだろう。


でも、今回できあがったものは作品としてではなく、商品としての展示販売となりそう。

とりあえず使えるものとして、お香立てに変身。便利さという一般向けの価値はあがった。

そして作品としての価値が…。

価格も…。


9月6日、あがらいん伊達屋さんにて公開。



妙にリアル。斬新で、ユーモア溢れるデザインが魅力。precious memory(プレシャスメモリー) テ...