33年前の6月。
アメリカのセントポールズ高を東京に招聘しての国際親善試合。
この試合は勝たなくてはいけなかった…
シュートを外しまくった私がA級戦犯…




1990年は天国と地獄を味わった1年でした。
慶應は春季トーナメント優勝、個人14ゴールで大会得点王獲得。この国際親善試合の数日前には慶應がセントポールズにハーフマッチで6-1で圧勝。個人4ゴールを決めるも相手DFのレイトタックルを喰らい脇腹負傷。国際親善試合本番では無様な無得点。試合後は泣きたかったです。写真では笑ってますけど。


ちなみにセントポールズ高は、アメリカのラクロス強豪校で、現在でも全米高校ランキング25〜30位くらいに位置しており、トップ10のチームにも勝利しています。

 






国際親善試合の翌月の7月にはオーストラリアパースでのW杯へ。(日本代表が初の海外遠征。W杯にエキシビション参加)
イングランド代表との力の差を思い知らされる。オーストラリアのクラブチームやユース代表にも歯が立たず。唯一、サウスオーストラリアU19代表に1点差で勝利。個人7ゴールはジャパン内では最多得点だったが、根本的な力不足を痛感。



翌8月はアメリカのNCAAキャンプに武者修行に行きました。親にはかなり金を使わせましたね。
ジョンズ・ホプキンス大キャンプでは最上位ディビジョンで優勝。決勝では先制ゴールと決勝ゴールを決める。

※キャンプ中のプレー画像が見当たらないので、代わりにジョンズ・ホプキンス大の寮で撮影した画像を(笑)
慶應同期の西澤シゲと。彼はこの1年後にジョンズ・ホプキンス大に留学しました。同大ラクロス部にはスタッフとして参加。

…とここまでは国際親善試合以外はなかなか良かったのですが、9月のリーグ戦開幕数日前のチーム練習で左足を骨折。結局、慶應はリーグ準決勝敗退となり、第1回全日本選手権の出場を逃すことに。1990年の最後は地獄を味わいました。大学3年生だったのが救いですが、1期上の先輩方を負けたまま引退させ申し訳なかったです。

そして翌1991年の最終学年、挑戦者としての慶應の快進撃が始まりました。シーズン全勝で全日本選手権制覇。8試合で個人24ゴール。1試合平均3ゴールを達成。春の東西交流戦2試合を含めると全10試合で個人36ゴール。
この当時の得点力は現在は見る影もありません(笑)

慶應在学中の公式戦ゴール(トップチーム)は通算57ゴールでした。
大学1年(1988年) 0点(出場なし)
大学2年(1989年) 7点(6試合)
大学3年(1990年) 14点(3試合)
大学4年(1991年) 36点(10試合)
試合数が異なりますが、大学4年時がダントツでしたね。30年以上も昔のどうでもいい話でスミマセン…