本当にご無沙汰になってしまいました。
暑いですが皆さんお元気ですか?
クーラー疲れでヘトヘトな私がここにいます。
自然風が恋しい…
都会はコンクリで暑すぎて…水まいて涼しい地元に戻りたいえーんもやもや














今日で22w0dとなり、
流産から早産へレベルアップです照れキラキラ














とは言っても
今すぐ出てこられては助かるものも助からないので、当分お腹にいてもらいましょう!!


いてくれ!!!!














今までの妊婦健診では特に異常を指摘されずに来れて、本当に幸せです。










そして性別もわかりました!
















なんと

















男の子♂ですラブグッ
















産み分けしたつもりはありませんが、
排卵直後に襲ったのが良かったのか???












この子が男でなければもう1人…
ともくろんでいた旦那さんですが、つわりが辛すぎるので辞めたい妻です真顔もやもや















そして旦那さん以外にももう1人…

義父にもプレッシャーをかけられていました。


義父『この子はどっちかなー?
男の子1人は欲しいよね。女ならもう1人…
いやいや、でもどっちでもいいけどねニヤリ






私『…んー…どうでしょう。まぁ元気に生まれてきてくれればいいです!…まぁ男ならどうなるのか想像できませんねー照れ(殺したろか?)』



ってな会話をしていたので、
立派なチンと玉が見えたエコー写真を送り付けて、もう詮索するなとトドメを差しました。












さずかりものなんだからいいじゃないかムキームキームキームキームキー


ってかすげえ頑張ってやっとできたんやぞ!!



と言ってやりたかった…















ふぅ…




そして男の子だからか分かりませんが、娘ちゃんの時よりお腹が前に出るスピードが早いです。

そもそも2人目はお腹が出やすいと周りの先輩ママ達に聞いていましたが、産休入るまで着れてたはずのスカートがもはやギリギリで…滝汗



娘ちゃんの保育園でも
『予定日そんな先なの!?
お腹大きいね!?』



と言われる始末アセアセ

そして娘ちゃんの時よりお腹が張りやすく苦しいチーン





うっぷうっぷしております。




















そして今回はちと自分の中での整理を兼ねて、妊娠とは別の話をさせていただきます。

暗い話にもなりますので、
自己責任でお読みください。































黒猫しっぽ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫からだ黒猫あたま






































では、


























話しますね。





































去る6月に実父をガンで亡くしました。













すい臓がんでした。












私が社会人になって2年目に発覚し、
手術と抗がん剤治療をして経過が良さそうと話していた矢先に再発がMRIで見つかりました。












根治は無理と分かっていても、
担当の先生が驚くほど前向きな父はマイナスな言葉を言わずに通い続けていました。
こんなに前向きな人はいないと亡くなったあとも先生に言われました。    





家族としてもマイナスな言葉を言わないので、本当に自分の今の状態をわかっているのか?と心配になるほどでした。





私と母は医療者です。
すい臓がんというものを一般の人より分かっているつもりでした。







がんの末期の経過も想像していました。









そのために介護休暇など含めて考えようとした矢先に父は逝ってしまいました。









何も、してあげられませんでした。









亡くなったあと、思い返せばターニングポイントは沢山ありました。







父の様子が少しずつ落ちていったのはコロナで世間が騒がしくなった頃からだったようです。




職場でも県をまたぐ移動が禁止され、日常生活でも制限が出ていました。








母や弟は父の受診に付き添ったり、帰ってきた父から話を聞いていたようですが私には心配かけまいとしたのかあまり言いませんでした。




4月に妊娠がわかって母に報告した時、父の状態が少し変だと話がありました。
気落ちさせたくない。
次の目標を立ててマイナスな事があっても前をむける目標があった方が良いと話し合い、まだ心拍も見えない内に父に報告しました。








LINEで検診検査薬を見せて
私『これなにかわかる?』



父『んー????
なにこれ?
分かるわけないじゃん!ムキー



私『ほんとにわかんない?』




父『えー?
…………赤ちゃん?えーキョロキョロびっくりラブ



私『正解爆笑




父『そうか!!コロナで大変だけど良かったな!!体大事にしろよ!』




ととても喜んでくれました。




母には

『俺は赤ちゃんが生まれるまで生きていられるかなぁ。生きてても娘ちゃんの時みたいに面倒みられないだろうけど横では寝ていられるかなぁラブ

と心配そうな、嬉しそうな話をしていたようです。








とりあえず目標になったみたいだと話していたのですが、やはりがんは待ってくれませんでした。








ご飯が食べられなくなってきた。


痩せてきた。


下半身が急に浮腫んできた。





と少しずつ母から連絡が来るようになりました。






つわりも辛かった5月中旬、もうすぐ緊急事態宣言が解けると分かった土日にフライングして実家に帰りました。





前より少しやつれた父がいました。




でも私たちがいるからかご飯も一緒の席で食べて、ドライブもしたりしました。



その後は緊急事態宣言が解除され、つわりのつらさから毎週末帰りました。



その都度父は痩せていきました。
ご飯も食べなくなりました。



6月に入って寝る時に娘ちゃん、私、母、父とみんなで寝ようと言った夜
痛みで父は眠れず一晩中唸って、痛み止めを飲み、母は体をさすっていました。




まだお父さんは逝かない。
だってあの症状がないもん! 
なんで痛み止めの薬の調節が上手くいってないの!?と私は病院に対して怒っていました。



 
浅はかですよね。




もうそう言うレベルの話ではなかったんです。








そこからは帰っても笑う父を見るよりも、痛みで苦しんでいる姿を見ることが多くなりました。

  




あんなに可愛がっていた娘ちゃんとも遠ざかるようになり、イラついて初めて怒鳴りつけてる姿も見ました。




怒鳴る元気があるのかと驚いて逆に嬉しかった気もします。






そしてなくなる2日前に母から『もう亡くなる準備をしなければいけない。家族会議をするから帰ってきて』と連絡が来ました。



突然の連絡に休憩室で泣きながら旦那さんに連絡したことを覚えています。








その日のうちに実家に帰り、次の日の夜話し合うことになりました。


朝起きて娘ちゃんと一緒に『おはよう!』と声をかけて、『おはようニコニコ』と笑って返してくれた父




『朝ごはん何食べる?』
と聞くと

『卵かけご飯…んー、でもコーンフレークにするかな! 』

と言われて用意したコーンフレーク




ご飯の前にトイレに行こうとした父が
もがいてる音がして、変だなと思い見に行くと
ベットに戻れずに苦しみ喘いで、
母を呼んでいました。





急いで母を呼び、体をさすって病院へ救急車で行きました。



2、3日か長くて1週間と言われました。



まだ時間はあるのか…と悲しいけど受け入れなければと言う気持ちが強かったです。




その後近い親族に連絡をして、
コロナの感染が落ち着いているときでしたが余命が関わるので病院から面会の許可を貰えた私たちはどういうスケジュールで父の元に誰がいるか話していました。








でも事態はどんどん進んでいきました。






結局入院して1日もせずに父は逝ってしまいました。






入院後の仕事のスケジュール調整も考えて今日明日なら色々楽だなとか一瞬でも私が考えたから?




家族会議をするのが、そんなに嫌だったのかな?






父が逝くまで
お別れの言葉は誰も言いませんでした。
お礼の言葉も言いませんでした。




言ってしまったら父が逝ってしまう事を父に突きつけるようで…
言ってしまったら父が逝ってしまうようで…
怖くて…
まだ逝って欲しくなくて…



ただただそばにいただけでした。






亡くなってから父の病状日記を初めて見ました。






そこには体調が書いてあるページの後ろの方に




『生きる覚悟
    死ぬ覚悟』



と書いてあるページがありました。


見た瞬間
何も言わなかったけど父なりに死に向かって行く葛藤があって、なのにそれを家族に言わなかったんだと涙が溢れて止まりませんでした。



 

母が落ち込むのを見て、
『まだ死んでないよ。一緒にいるよ。』
と声をかけていた父。






夫婦でちゃんと不安なことも楽しいことも話した方がいいよとアドバイスしたこともあったけど、家族を気づかって言えずにいたことがどれだけあったのか。



私はほんとに両親に甘えたな娘でした。


父は私が一人暮らしをしてから結婚したあとも、熱を出したり体調が悪くなるとどれだけ遠くても迎えに行く!!!と凄く心配してくれる人でした。





もうそんな人お前には居ないんだからしっかりしなさいねと半泣きの母と話しました。







生きてる時は欠点ばかり目がいって、
ほんとにもう!と思うことばかりでしたが
居なくなったあとは家族の誰もが父の存在の大きさを実感することばかりです。







後悔はつきません。








ただ、
無くなるまで毎週顔を見られたことは世間的に良い行動ではありませんでしたが
私たち家族には良い時間だったと思います。










そして実は父がなくなる前日に、
もしかしたら男の子かも?これがチンかも?
と先生から言われていました。


確定ではないし、父もまだ時間があると思っていたので言わずにいた私ですが
母がなんと言っていたようですびっくり
『なんでこんな早くにそんなことがわかるんだ?えー』とすごく怪訝そうにしていたと聞き、
生きてる時に教えてくれててありがとうと話しました。







お父さん、ほんとに赤ちゃんは男の子でした。  
いまは立派にシンボルが見えます。


顔を見ることは生きてる時は出来なかったけど、
その分魂として赤ちゃんともう話せているよね?
会えているよね?


生まれたら会いに来てくれるよね???
お産の時も入室制限なんてないから見守っていてね


無事に産めるように頑張るから。
里帰りしている間は赤ちゃんの横で一緒に寝てあげてね。