人が普段から死を意識しなくなるのはどういった条件だろうか。

発展途上国等の難民は常に死と隣り合わせで否応なしに意識せざるを得ないだろう。


日本人はどうか。

子供に死を匂わすようなことを親に言われることはほとんどないと思う。

環境にもよりけりだが大多数は平和ボケした生活を送っているだろう。

ただ他人のことを考えるのは所詮推測でしかない。

そもそも人間は色々いるのに「大多数が」という見解で語るのはあまりしたくない、でも大多数とひとくくりにして考えようとするのは楽な上に説得力を持たせやすいからやはり頼ってしまうだろう。


自分の場合はどうか。

生まれたときから死ぬことの怖さについて何故か敏感だった。

テレビなどで死ぬことは怖いといったことを吹き込まれるからというのもあるだろうが、幼少のころの自分の場合は「死ぬ=痛い」ということだった。

「死ぬのは嫌=痛いから」という単純な考えは5歳~11歳前後まで続いた。

痛くなくて天国にいけるのなら喜んでとまではわからないが、死を受け入れただろう。

いつしか「死ぬのは嫌」の大きな理由が「存在がなくなるから」にかわっていた。

子供のころに誰もが思うことだろうが、「こいつはいなくなったほうがいい」と考えたことがあると思う。

この「いなくなる」という子供の考えは、その時点では大した事だと考えなかったかもしれない。

実際のところ人間には「同じ動物である人間を殺してはいけない」というプログラムが本能でなされているわけではないと思う、あるとしてもそこまで大きく働きかけるものではない。

人が人を殺そうとするときに躊躇するのはルールを吹き込まれるからという理由が大きいと思う。

蚊を殺すのは血を吸って痒くなるという害があるからだ、精神が安定している人間が華麗に舞う蝶々を握りつぶしたりはしない。

生まれたときから人を簡単に殺せて、尚且つ責任を課せられることが無ければ小学校を卒業するまでには千人以上は殺しているだろう、だがこれも推測でしかなく20人程度しか殺さないかもしれない。

では愛する人を殺すか。

子供のときに愛する人を殺す可能性があるパターンは、失望だろう。

衝動で簡単に殺せる力があるなら茶飯事起こりそうなところであるが子供には力が無い。

未熟児が愛する人を殺したとき、後に残るのは後悔。

逆に嫌な人間を殺したとき、清清しい気持ちになるだろう。

存在について少なくとも自分は考えないだろう。

存在というものがそもそも曖昧だが大きなものとして「魂」。

もっと具体的に言うならば頭脳に大きくかかわるものとして自分は考える。

存在がなくなることについて平和ボケした日本人がまず実感するのは身内の死去だろう。

自分はそういった理由ではない、自分を通して存在の重さを捕らえだした。

日々をなんとなく生きているのではなく、人間としてなんとなく大きなものを背負おうとした時、自分がとても大切なものになる。

黎明期であり、他者より優れていると考えたときは尚更だろう。そのときの自分は他人から見てどうあれ、一番輝いていたと思う。かなうものならその時の気持ちを確かめたいし戻りたいという気持ちもある。


さて本題だが。

基本的にずっといつも死を意識していたのは20歳までだ。本当はもっと以前からだったかもしれない。

正直自分の今まで生きてきて落ちぶれたと思ったのは16歳前後だったが、挽回可能だという希望からまだまだ人生を極力捨てないようにする意思があった。

20歳前後になったときにはすでにその希望も紙のように薄くなっていたのかもしれない。

少しずつ薄くなり、無意識で制御ができなくなった。

なんとなくいつでも死んでいいかなという気になってしまっていた。

ただこれも自分の憶測でしかなく、意識できない領域で何を考えているか、ある程度正しい答えを導き出したいと思う。


ブログは初めてだが自分を確かめるというのを大きな目的としてはじめた、拙いながら書きたいことを意のままに書くつもり。

おかしいこと書いていると自分で思ってもほとんど書き直さない方向で行きます。

まだこのテーマは書きたいこと沢山あるけど書くのに時間がかかって寝ないといけないので、筆をおきます。

今現在リアルの生活が忙しい。