環境問題に本格的に取り組む知事を! | 環境問題に本格的に取り組む都知事の擁立を目指すブログ

環境問題に本格的に取り組む知事を!

                                【2011年3月21日修正UP】
戦国の世、戦いを前に、戦わずして死ぬのは恥。

いまは戦国ブームだという。

NHKの大河ドラマでは、名君と慕われた柴田勝家が豊臣秀吉の狡猾さによって、降伏するのを潔しとせず、城とともに自害というストーリー。

お市の方や娘たちに、父は戦はしないと誓っていたが、秀吉の野望に、捨て置けぬと立ち上がった。

戦争、人殺しが日常だった世の中に対して憧憬はないが、そこには全体に必要なことのために、誇りのために死ぬ文化があった。

原発消防隊と、戦時中の特攻隊の、それぞれの現場の人々の志は美しい。

今回、福島原発の消火活動のために、命をかけて多くの国民のために働いた現場の人々には心から敬意を表する。私の周りでも、自分が行ってもいいという声を何人も聞いた。

しかしそれを、命をかけて原発の未来を救ったという考えには反対だ。
原発が危険でなかったら、彼らが命をかけて行う必要がそもそもなかったのだから。

第二次大戦中、神風特攻隊として米軍の艦船に突っ込んだ、彼らの気持ちは尊いとしても、そういう事態にさせてしまった戦争責任が問われるべきなのだ。

お国のために死ぬことを美化した結果が、先の日本の大戦で多くの悲劇を生んだのではないか。


そもそも、原発に反対し、命をかけて孤独に戦ってきた人たちのことを思い出すべきではないか。
研究者、市民運動家、一般の人びと、多くの人が、自分の仕事ではないし日当も出ない、むしろ自分の生活や財産を削って、地域の幸せ、後世の世代のために戦ってきたのだ。

その評価をせず、公のために犠牲になれ、という態度は、水俣をはじめとした各地の公害を水俣を生み、いまも原発の恐怖を地方に押し付けている。

大のために小が犠牲になる、という考え方から、大も小も生かす、という発想方法に転換していくべきだ。


すり替えには注意しなければならない。


さらに、大勢のために自分の命を投げ打つのは、日本人だけの美徳ではない。

世界のいたるところで、そういうことはあったのだ。

日本人だけが素晴らしい、という考えは日本人を真の誇りある日本人にはできないと考える。



今後都知事が、石原氏、あるいは渡辺氏になっても私たちは、自分の生活に変わりはないから、と黙っておとなしくしていればいいのだろうか。


人びとの年貢で豪奢に振る舞い、他国への侵略、差別的感覚をよしとする現代の豊臣秀吉を押しとどめるときではないか。

東京都民の良心として、石原氏に対抗する戦いに挑まなければ末代までの恥だと思って、いまこうして小さな戦いを始めた。

誰か、立ってはくれはしまいか。



環境問題に本格的に取り組む知事を!

[石原対抗馬の擁立に挑戦しています]
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