平成7年の事件後編・日本を震撼させた事件編 | 私を魔女にしてください☆夢幻愛乱奴

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どうもー、Iraです。今日は春分の日ですね。昼と夜の長さが同じになる日。

今日からどんどん昼間の長さが長くなっていきます。私は冬の長い夜が

好きなのでちょっと寂しい気もしますが、これから季節は暖かいから暑い

へと変化してく…そんな時期なのですね。


さて、昨日は私的な事件のお話をしました。平成7年というと阪神淡路大震災

のあった年で、干支で言うとイノシシの年だったのですが、いのししの年は

あんまり良くないというので中国なんかでは金色の豚の年として十二支に

入れられています。確かに平成7年は大きな事件も多かったですね。

私が玄関先でお財布を盗まれて大ショックを受けていた翌日の朝に

世界で初めての大規模無差別同時多発テロが行われたのです。


それはお彼岸の中の休みと土日の間に挟まれた月曜日の朝の事でした。

会社に行くとテレビで大きなニュースをやっていました。それは東京の地下鉄の

電車の中で不審物が置かれ、異臭や目の刺激などで多数の負傷者が出ていると

いうものでした。その有毒物質はサリンである可能性が高いと言われ、地下鉄の

駅職員さんや消防署員さんなどが処理にあたりましたが、死者13名、負傷者が

6千人以上という大きなテロであると判ったのです。


そもそも何故サリンという物が世間に知られていたかと言うと、その前年に

松本市の裁判官やその家族の住む住居に向けてサリンが撒かれ、人数こそ

少なかったのですが犠牲者を出し、それがまるで誰かの実験のせいで

あるかのように報じられたからです。実験を行ったと噂された河野さんは実は

被害者で、奥さんが松本サリン事件のせいで意識不明の重体に陥っている

にも関わらず、近隣トラブルで自らが科学実験を行ってサリンを発生させて

しまったかのように報道され、誰にも信じてはもらえませんでした。でも実は

長野で大きな裁判を抱えていたオウム真理教が裁判官を狙っての犯行を

起こしていただのと誰が知っていたでしょう。


長野のサリン事件で世間にサリンという有害ガスの存在が明らかになりました。

それがオウムに繋がったのはある理由がありました。オウムの教団事務所が

東京にあった時、建物から異臭がするという事で話題になりました。その時は

有毒ガスのサリンではなく、炭疽菌という生物兵器を作ろうとしていた事が

後になって判りました。要するにオウムはそんな危険な兵器を平気でばらまく

恐ろしいテロ集団だったのです。しかしまだ世間はオウムの実態を知らなかった

のです。では何故20日にテロが行われたか。それは20日にオウムに警視庁の

捜査班が家宅捜索に踏み込む事になっていたからです。


その事件というのが公証人役場の苅谷清さんという方が姉がオウムに入って

いるのを何とか助け出したいと活動していらしたのを、オウムが拉致、殺害

したと疑われていたためです。その時はまだ苅谷さんの捜索というものが

あったために捜査も慎重に行われていました。しかし日本各地にあるオウムに

一斉にメスを入れるとなると大がかりな摘発になるために、日本中に居る

警察官が呼び寄せられるという事になります。でも実は警察内部にもオウムの

息のかかった者が沢山居たんです。オウムには色んな部署があり、色んな

職業に化けて潜り込んでいたのです。医者、弁護士、教師、など名誉も信頼も

ある職業の担い手に化けていたのです。


ではオウム真理教とは何だったのか。もともと教祖の麻原こと松本は九州で

整体師をしていました。そしてその時にニセの漢方薬を処方するなどして

医師法違反で整体師として商売する事を禁じられた男でした。しかし松本は

自らを教祖と名乗り、「解脱」と称して空中浮遊術などを取得したとホラを吹き

前途ある若者を惹きつけて洗脳していったのです。

そして、破壊神シバをあがめるおかしな新興宗教を立ち上げたのです。

インドの神やインドの言葉を使う事によって嘘っぱちな物がさも本物であるかの

ような錯覚を起こさせるというマインドコントロールは確かにうまかったんでしょう。

オウムは最初小さな宗教サークルだったのが、だんだん共同生活をしていく人数

が増えていつしか教団となり、2000人とも言われる大集団へと変わっていったの

です。京都にも、そして私の住む城陽にもオウム信者が居ました。京都では

四条河原町の高島屋の7階にあるイベントホールで定期的にオウムの集会が

行われていました。京大にも沢山の信者が送られていました。


それがマスコミに取り上げられるようになったのは、ある信者の家族が、家族を

取り戻したいとあちこちで訴えを起こそうとしていたからでした。フジテレビを

中心に毎日のようにメディアがオウムを取り上げていました。教団の内部を

平気で公開してました。そしてオーディオを使ってヒーリングミュージックみたいな

のを研究しているチームや教祖の麻原の遺伝子を研究しているチームなどという

不気味なチームが存在してる事もこの頃から取り上げられていました。しかし

その頃まだ教団は不気味な存在に過ぎませんでした。彼らが一大犯罪組織として

変わっていったのはある弁護士一家を巻き込んだ事件からでした。

当時まだ若かった坂本堤さんという弁護士さんの一家が夜の間に忽然と姿を消し

てしまったのです。坂本さんはオウム事件の被害者救済にあたる1番大事な弁護士

さんだったのです。新婚の奥さんと幼い子供さんが1人、一緒に姿を消したのです。

坂本さん一家が失踪した家から教団の物と思われるバッヂが見つかりました。

プルシェという独特な物だったのです。しかし教団は記者会見をして自分達には

全く関係がないと主張し、事件の真相はなかなかつかめませんでした。

しかしその後も教団はあちこちで自分達の敵となる者の排除をやめようとはしません

でした。ジャーナリストの江川紹子さんにもVXガスの攻撃という恐ろしい事が

ありました。オウムは自分達の身が危うくなると先に攻撃をしかけるという事を

繰り返してきたのです。脅迫あり、闇討ちありと真っ当なやり方はありません。


苅谷さん事件の捜査のために警察が動くという情報を独自のルートで得た教団は

20日にテロを決行する事にしたのです。かねてから自分達の研究グループ「科学省」

というのがサリンの精製に関わっていました。都心などに生息していたはずのオウム

は拠点を長野県の上九一色村へ移動し、サティアンと呼ばれる建物の集団を作り

そこで共同生活をしていたのです。子供達も多く居たようです。


オウムの狙いは霞ヶ関、すなわち国政の中心地でした。春休みの最中の出勤日で

公務員達が霞ヶ関に足を運ぶであろうと予測して、その近辺の電車や駅ホームで

サリンをばらまいたのです。やり方は袋に入れたサリンの液体を傘のような物の

先端でつついてガスを発生させて逃げるというものでした。

サリンは神経ガスで、1番に目をやられます。私が農薬中毒にかかった時に

お世話になった北里大学の石川教授はサリン事件の時に神経毒治療の

1番の研究者として活躍されました。しかし失明寸前まで行った人やPTSDに

陥ってしまった人、その他色々な負傷者が出たのです。


そして現在。今はオウムは名前をアレフと変え、その存在は公になる事は

ありません。しかし私達はオウムの起こした様々なテロ事件を風花させては

ならないのです。教祖の松本も未だにボケを演じて処刑されてません。

でもその処刑を見届けたいと望んでいる人が多いそうです。

あの当時幹部としてテレビに出ていた上佑や青山といった面々はどうして

居るのでしょうね。一連のオウム事件で死刑を宣告された者も数名いましたが

まだ誰1人死刑執行されていません。事件の真相が全て解明した今、

麻原こと松本という史上最悪の犯罪者の速やかな死刑執行を望む人は

少なくありません。日本でこんな事件が起こってしまったから、今の一連の

テロ事件が行われるようになったのだと思うととても恐ろしいです。

アメリカの同時多発テロ事件の首謀者ウサマ・ビンラディンはこの事件を

きっかけにテロを起こしたと言ってた様です。恐ろしいですね。


そんなワケで平成7年の3月20日は朝1番に山田さんの死を知ってビックリ

会社に行ってサリン事件でビックリという本当に私に取っても世間にとっても

大きな一日だった事をお伝えします。ではまた…。



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