大戦末期、赤化熱にやられていた日本軍部 | MAXIQ(山海草木庵)のブログ・・パチンコ撲滅!!・・ヘンタイ禁止!!・・アメーバからオデン文字を撤去しろ!韓流テレビの宣伝もするな!

MAXIQ(山海草木庵)のブログ・・パチンコ撲滅!!・・ヘンタイ禁止!!・・アメーバからオデン文字を撤去しろ!韓流テレビの宣伝もするな!

朝日新聞は明確な意思をもって日本を葬ろうとしている。
朝日新聞を潰さない限り、日本に未来は無い。
だが、シナ共産党がある限り、朝日新聞は潰れない。
ではどうするか?・・・
とりあえず、朝日新聞社長と社員全員○刑台に送れ。
話はそれからだ。

戦前の日本赤化工作はあなどれ

ないものであった。


何が侮れなかったかというと、

大正時代から昭和にかけて、

理想社会を夢見てソ連に渡って

いった日本のボンボンの甘い夢

と幻想は、そのまま日本国内の

共産主義思想についてまわり、

左翼から右翼に転向した者たち

よって、さらに感染を拡大し、

官僚や軍部中枢部まで、この熱

感染していった。

この熱がやばかった。

ロシア人に発生した共産主義は

半分はロシア人の本性と一体の

ものであり、およそ日本人とは

相容れないものだったのだ。

が、

ロシア人を知ってか知らずか、

それを切り離して、共産主義を

錯覚して大ずれの甘い夢に冒

れていったのである。


しまいには、この熱にうなされる

者どもは、「ソ連がきっと助けに

来てくれる」と信じていたという。


救い難き重症患者が日本中枢

部に巣食うのみならず牛耳って

さえいたのである。




「正論」平成25(2013)年12月号
特集 大東亜会議70年目の真実
アジア共産化を防いだ「もう一つの栄光」
「民族解放」に忍び込んだソ連の野望との戦い

評論家 江崎道朗


上記の注目部分。三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日新聞社)によると、
戦前の日本では資本主義に対する反感とソ連・共産主義に対する親近感が広まっており、政府と軍部では日ソ独が手を結んでイギリスをアジアから追い出す構想が検討・推進されていた。

平沼内閣で外相を務めた有田八郎が原田熊雄に語ったところによると、
日独の同盟構想はいったん失敗したが、独ソ不可侵条約に日本も加わって英米をアジアから排除する構想が左翼から右翼に転向した勢力によって推進されており危うい限りだが、軍部の一部もそれに乗っているとのこと。原田熊雄『西園寺公と政局』第8巻より。

近衛文麿(談)として、若い官吏に親ソ・親独の熱が広まっていて、特に外務省の若い連中はほとんど全部というありさま。

カリャギン『抗日の中国』(新時代社)によると、蒋介石は対日戦の決意を固めており、トラウトマン協定を呑む気はまったくなかったようだ。対日戦遂行ではソ連からの武器援助が重要な役割を果たした。



中西輝政「情報亡国の危機」

東洋経済新報社 
p155.

ゾルゲは昭和10年代に、日本について「この国を動かすには軍隊もスパイもいらない」と書き残している。あるいは「日本には本当の意味での政治というものが存在しない」とも指摘している。「空気によって動くから」というのがその理由だ。

とすれば、その「空気」を自在に動かすにはどうすればよいのか、つまりメディアや国家中枢への工作を通じ、国家を操ることが日本に対する最も効果的なインテリジェンス活動である。
尾崎やゾルゲはそれを熱心に考えた節が見られる。

いわく、「この国には決断がない。むしろ指導者が権力的に決断を下せば、国民にそっぽを向かれる。そのかわり空気さえ醸成していけば、どんな重大な決断でも導くことができる。だから空気をいかにつくるかが重要だ。そのためには、頭の中は空っぽでもいいから、協力的で、こちらが望む記事を書いてくれるジャーナリストが何人かいればよい。それだけでこの国を完全に牛耳ることができるときがある」。

このような趣旨のことを、ゾルゲは逮捕後に語っている。



月刊WiLL:2014年5月号

巨弾新連載 昭和天皇「七つの謎」⑤

加藤康男
天皇周辺の赤いユダ(前篇)


 近衛の上奏から二カ月経った四月十五日の早朝である。
大磯の吉田別邸を憲兵隊の一群が取り巻き、その場で吉田は逮捕された。
吉田茂と近衛の間に入って「和平工作」グループをまとめていた岩淵辰雄(元国民新聞、読売新聞記者、政治評論家)の調査によればこうだ。
「近衛はその(引用者注・上奏の)帰りに、宮中の木戸の部屋に寄って、書簡箋十枚ほどの箇条書きにしたものをおいてきた。

それが木戸から、梅津参謀総長の手に渡ったのだ」(畠山清行『秘録 陸軍中野学校』)

 岳父・近衛から細川護貞が聞いた話とは、次のようなものだった。
「小畑中将の知人にて、某処より、梅津の児分の池田純久少将が、かつて企画院に在りて作成せる文書を手に入れたる人あるも、夫れには、計画的に支那事変を起し、日米戦争まで持つて来て、我国の社会制度を一新し、ソビエットの夫れの如くせんとの意図を看取するを得るものなりと。

夫れより逆に考へて、支那事変当時の梅津の態度等は、実に首肯しかねるものありたるも、或はかゝる陰謀もありたるならん」 (細川日記)

 梅津大将は支那事変勃発時に陸軍次官、その後、関東軍司令官として新京で指揮を執っていた。
事変不拡大方針を表明していた近衛内閣が実行できなかった陰には梅津がいたからだと、近衛が十八年暮れに至って確信した様子が窺える。



月刊WiLL:2014年6月号
加藤康男 昭和天皇「七つの謎」⑥

天皇周辺の赤いユダ(後編)

 小野寺信(少将、ストックホルム駐在武官)から送られた情報は何者かによって握り潰され、日本は終戦をめぐる国家の舵取りを大きく誤った。
     (中略)
 ヤルタ会談後に小野寺からの電報を直接受信したのは、参謀本部次長の秦彦三郎(昭和18年4月8日~20年4月7日)で、その実務官は松谷から戦争指導班長を引き継いだ種村佐孝大佐だった。
     (中略)
 参謀本部と外務省の首脳が訪ソ使節としてまず頭に浮かべたのは、参謀本部第5課(ロシア課)所属の参謀から選ぶ案だった。
だが、参謀本部内にはもっと優れた適任者がいると秦次長から名前が挙がったのは、つい2月から3月にかけてクーリエとして日ソ間を往復して帰ったばかりの瀬島龍三中佐(戦後、伊藤忠商事会長などを歴任)だった。(もえ太郎註;瀬島は工作員名を持つソ連のスリーパー スパイです。)
     (中略)
 自身は作戦課に籍を置く瀬島参謀は3月に帰国した際、非常時ゆえ海軍の軍令部と陸軍の参謀本部を合一させてはどうかと上申して、注目を集めていた。
     (中略)
 彼が満州に赴任する7月10日までの間、作戦課参謀にいながら連合艦隊参謀を兼務するという異色の重用を受けていたのである。
     (中略)
 だが、ヤルタ協定のさなか、ソ連内にいて先方の軍首脳と会っていた瀬島のこのときの任務は、いまだに特定されていない。
     (中略)
 瀬島案が無理となった3月末、大本営と政府間の調整会議の席上で、いつもは陪席しているだけの右大臣・木戸幸一が、なぜかこのときばかりは発言した。
昭和15年以来、右大臣の要職に就き、東條英機を首相にと天皇に言上するなど、もっとも天皇の信頼を得ている宮中政治家だ。
「ソ連特使の適任者がいないということのようだが、私の知り合いで外務省の書記官がいる。彼なら適任と考えられるがどうか」
そう言って木戸が挙げた名前が「都留重人」だった。
     (中略)
 都留重人のもう一つの顔は、ハーバード大学で築き上げた共産主義者としての側面である。
都留はハーバードにいるときに、3歳年長のカナダ人学者のハーバート・ノーマンと深い親交を結ぶようになった。
     (中略)
 ノーマンとビッソンはともに共産主義者でコミンテルンのスパイ活動をしていたことが、戦後のマッカーシー委員会で明白となった。
     (中略)
 昭和20年8月30日、マッカーサーが厚木に降り立って間もなく、ハーバート・ノーマンも再び日本の土を踏んだ。
     (中略)
 そのノーマンが最初にやった仕事は、府中刑務所に入っていた徳田球一や志賀義雄ら、16名の主要な共産党員を釈放することだった。
     (中略)
 ノーマンの次の作業は、GHQから依託されて、近衛文麿と木戸幸一に関する意見書を作ることだった。
近衛、木戸をA級戦犯指名し、起訴に持っていくための資料である。
木戸の姪が都留の妻であることは、当然のこと先刻承知している。
 ノーマンは再度、都留を訪ね、その情報をよすがとしてGHQ宛に二通の「戦争責任に関する覚書」を提出した。この「覚書」で近衛と木戸は、それぞれの位相を際立たせる形で論評されている。
 近衛はここまで言うか、というほど酷評され、木戸は右大臣の職責は「所詮、盲腸のようなものさ」と言った都留の言がそのまま使われるほど、身贔屓に満ちた内容だった。
     (中略)
 迫り来る共産主義の脅威を述べた近衛上奏文を入手した木戸は、その場で都留に電話を掛けて相談し、直ちに梅津参謀総長に連絡したのだ。
梅津はさっそく四方諒二憲兵隊長とともに吉田(茂)グループ逮捕の証拠固めに奔走し、間もなくスパイの手で吉田宅から上奏文の写しが押収された。
 都留のシナリオどおりに吉田グループは逮捕されたが、憲兵隊もさすがに公爵・近衛の逮捕にまでは踏み切れず、監視を続けるに留まったのだった。



レーニンの革命論「敗戦を内乱に転化せよ」


「正論」平成26(2014)年6月号
日本を戦争で破滅させた赤色謀略はここから始まった

「日米を戦わせよ」

1920年のレーニン演説とスターリンの謀略
青山学院大学教授 福井義高

朝日新聞の「革新派」が戦争を主導した

朝日は満州事変後に、その営業方針として戦争協力を決めたのだ。1931年10月1日の大阪朝日の社説は「満州に独立国の生まれ出ることについては、歓迎こそすれ反対すべき理由はない」と書いた。これはそれまでの反軍方針の大転換で、従軍記者の報道で大きく部数を伸ばした。

朝日はなぜ大転換したのか。朝日の社史では在郷軍人会の不買運動が理由とされているが、そういう消極的な転換ではなかった。このあと朝日は、戦線拡大に慎重な陸軍首脳より先鋭的になり、青年将校を煽動したのだ。

日米戦争をあおって「鬼畜米英」というスローガンをつくったのもアサヒグラフである。

その一つの原因は、朝日が革新派の新聞だったことにある。緒方竹虎以下、笠信太郎や古垣鉄郎などのスター記者はみんな「リベラル」で、社会主義に親近感をもち、日本を計画経済にすべきだと考えていた。
これは陸軍統制派の国家社会主義に近く、それを通じて近衛文麿との関係が強くなった。

近衛も新聞を味方につけたかったので朝日に情報をリークし、朝日は「一国一党型新党で日本を革新すべきだ」という論調をとるようになる。これが大政翼賛会になり、緒方は「新体制」の幹部になった。

このあと朝日は社論を「新体制支持」と決め、国家総動員体制の支柱になった。



『悪の論理』 倉前盛通著

戦後、重慶から帰国した青山和男氏の談話が昭和21年4月3日の朝日新聞に掲載されている。
・・・・
もちろん、彼の任務は仮面をかぶって日本に残っている尾崎などと連絡をとりながら、いかにして、支那事変を長期化させ、泥沼化させるかということであった。

その彼は朝日新聞掲載の談話の中で次のように述べている。
「尾崎秀実君から(日米戦がはじまるぞ)と予告を私たちに伝えてきた。そのため、連合国のいっさいの準備ができた。尾崎が知らせたのはソ連と中国であったが、私は英国と米国へ”戦争の準備はいいか”とはっきり駄目を押したところ、両国とも”大丈夫”と答えた。云々」

と自慢話をしている。

真珠湾の不意打ち説が完全な嘘であることが嘘であることは、これでも明らかであろう。




kidokou

戦時中の赤化工作推進者、木戸幸一

「敗戦革命」をもくろんでいた。

天皇謁見回数が最も多い政府要人で

もあり、天皇の助言者でもあった。



政府中枢にいてソ連に忠誠を尽そうとした『軍国主義者』たち~


参考

近衛文麿【共産主義政権】が主導した大東亜戦争の真実



konoe

近衛文麿の戦争責任

単行本 – 2010/8/10

中川八洋(著)



しかし、東京裁判で死刑を免れた

木戸幸一が、日本人にとっては

一番罪が深いのではないかと.......


木戸幸一は、

昭和20年3月3日、宗像久敬に対して、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け入れてもよい、という話をしている。さらに「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国位のものではないか」とし、「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか」と述べている。

(「宗像久敬日記」)




(おまけ)



kyousanyume

共産主義が見た夢

(クロノス選書) 単行本 – 2007/2/8

リチャード・バイブス(著)、飯島貴子(翻訳)


ユートピアはなぜ実現しなかったのか?
実践の過失か、
思想としての欠陥か?

二十世紀を揺るがした一大実験の本質を探る。

階級差のない平等な社会という永遠の理想を掲げて誕生した共産主義。
マルクスとエンゲルスが打ち立てた綱領はレーニンによって体制へと発展し、二十世紀の歴史を大きく揺るがしていった。
莫大な数の犠牲者を生み出しながらソヴィエト連邦の解体という終幕へと向かった
"失敗"の原因は何だったのか?
今なお世界情勢に余波を残す人類の一大実験を振り返りその錯誤の本質を検証する。

(本の紹介《アマゾン》より)



つづく