I Pray For... -10ページ目

I Pray For...

ショートショートやナチュラルストーンのハンドメイドアクセサリーなど、
何かを書いたり作ったり。羽生結弦選手について勝手に語ったり。
好きな音楽や芝居のことなども時折熱く語ります?

それがどれくらい前だったのか、今となっては思い出す事も出来ない。
あいつ、1999年って何が起きるんだろうなぁって言ってたんだだけど。あぁ、
こうやって小さいことから少しずつ忘れていくんだろうな。人の記憶って残酷な
もんだ。そういった僕の言葉が聞こえているのかいないのか、彼女は無言のまま
彼女は窓の向こうの雨を眺めている。

カチッ。ライターの火が薄暗いこの部屋を一瞬だけ照らしだす。紫煙の向こう
に見える彼女は相変わらず無言のままだ。この部屋は5年前から何一つ変わって
ない。5年前から時間が止まったままの部屋に彼女は無言でたたずんでいる。

この部屋であいつといろんな話をした。ほとんどは今となっては思い出すこと
もできない、たわいもない話。けれどもその時の精いっぱいの自分をお互いにぶ
つけ合ったたくさんの夜があった。安物のウイスキーをあおりながら。

黒い服の彼女が振り向く。ねぇ、そろそろ行こうよ。
そうだね、そろそろ行こう、僕は煙草をもみ消し立ち上がった。

そうか、もう5年もたったんだ、冷たい石の裏にかかれた1994年という文
字が胸を痛々しく締め付ける。1999年にはいったい何が起きるんだろうなぁ、
そういったあいつの顔が目の前をよぎる。屈託なく笑うあいつの顔。

傘を差しながら手際よく花を取り替え、おまえの名が彫られた石を磨く彼女。
彼女はあれからあの海には近づくことはない。そう、あれからずっと。そして彼
女はおまえの部屋で一人、暮らしている。帰ることのない主を部屋で待っている。

もう5年たったのね。
あぁ、もう5年だ。

あいつがいなくなってから5年。暗く冷たい海の中にあいつが消えて5年。
あっという間に過ぎたようで、でも長かった。悲しみは時と共に想い出となり
記憶の中に散らばっていく。

5年間あの人を待っていたわ。
あぁ、そうだね、あの部屋で君はずっと待ってた。
でもね、やっぱり帰ってこなかったよ、わかってたけど。
そうだな、帰ってこなかったな。
ほんとにもう、あの人いないんだね。
あぁ、もういないんだよ。
あたし、あの部屋を出ようと思うんだ。
そっか。
でも忘れるわけじゃないのよ。想い出にかえるだけ。

彼女の頬に一筋の涙がつたう。が彼女はそのまま微笑んだ。僕はその涙を拭う
ことさえできず、その微笑みの果てしない美しさにただ見とれていることしか、
できなかった。

向日葵は下を向き、蛍の灯火が去り、下舷の月が夏の終わりを告げる、夜。
ただ、二人まっすぐ海岸を歩いて、夏とともに終わる互いの想いを口に
出せずにいたね。

どうして、私たち、優しくなれなかったんだろう。どうして、私たち、
許しあえなかったんだろう。どうして、私たち、別れることしか
考えられなくなったんだろう。ふたりがひとりになる、そんな決断しか
できなかったね。

砂を踏む音だけがひびく岸辺で、たくさんのどうしてが二人の間を揺れている。
ねぇ、そこを曲がれば駅に行く道に出てしまうよ。あの駅についたら、
私たちが「私たち」でなくなるんだね。
お別れなんだね。もう、本当にお別れなんだね。

夏が終わる。恋が終わる。下舷の月が、新月になる。
そしてわたしも、あなたも、ひとり、になる。